きみはこの夕闇をみたか
     2004年05月18日(火)

 五月の夕暮れは、南国の果実をてのひらの上でゆっくりと潰す快感に似ている。粘りけのある果汁が指のあいだをこぼれ伝い落ちていくように、夕陽はゆるやかに宵に移っていくのだ。
 単に夕焼けの色から連想しているだけかもしれない。湿気に満ちた夕風のせいか。ゆるく体を揉まれているような奇妙に心地よく、気分が違えばきっと不快にも思うに違いない温度は五月のものだ。
 近所の中学校は最終下校時刻を告げる音楽を流し始めた。木管の円い音が、茜色の雲の中に融けていく。ボレロ  だ。
 あの緋色の雲は溶け落ちて、いきものの体液のようなあたたかい雨になるだろう。
 そろそろ帰ろうか、そう思い立ってわたしはとうとう腰を上げた。気分転換の散歩にと家を出たのは午後の四時ごろだったと覚えていたから、もう三時間も何もせずにただ歩いて、座って、空を見上げていたことになる。
 家からの連絡はまだない。

 夜に落ちる夕闇のスピードには追いつきようもない。ひろびろと頭上に広がった空は、わたしの歩いていくその方向のみを残してもうほとんどすべてが深い藍色に染まっていた。わたしの足元から家へと伸びる道の左右には暗い鏡のように水を張った若い田があり、田の向こう遠くにやはり暗い雑木林が広がっている。藍色はその林の上辺すれすれに、薄紫から赤みを帯びて途切れる。あのかすかな燈の中に、家があり、そこに今日、新しい命が生まれるのだ。家からの連絡はまだない。
 一本道はとうとうと続く。田のほかには何もないこのいなかでは、陽の落ちた屋外を歩くものなど少ない。まるで不偏の孤独のような遠い道を、しかし向こうから人が歩いてくる。ちらり、ちらり、呼吸するように強まり弱まりしている灯は、おそらくは煙草だろう。男だろうと思った。小さな歩幅でせかせかと歩く様子が神経質な感じを受けた。すれ違う段になって、わざわざ男は道の傍に寄り、わたしに進路を譲った。小さく頭を下げて、互いに顔をそむけて行き違う。男の顔は薄暗くはっきりしなかったが、心なしか口元と指先だけが明るく見えた。煙草を挟んだ唇は薄く、美しいかたちをしていると思った。
 ちらちらと細かく揺れる煙が流れてくる。一本道を反対の方向へ歩いていくわたしと男の距離はだんだんと離れていくというのに、煙はくるくるとわたしの周りをまわってしつこく纏わりついた。
 道の両脇の水田から蛙の声が空に昇っていく。闇を押し上げようとしているようだ。焦らなくとも、朝はすぐに巡ってくるだろう。新しい日が始まることを、きみが生まれくることを、今はっきりと祝福しよう。
 黒い鳥がつうと空を横切っていった。男の煙草の香りがバニラに似ていたことに気付いた。

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