Rose Du Mai
     2004年05月15日(土)

 ざあっと音を立てて風が枝葉を凪いでいった。洗濯物を取り込もうと上がったマンション屋上の干し場からは、道路を挟んで向かいにひらけた運動公園がよく見下ろせた。冬枯れの灰色から一気に新緑に芽吹いた四月には目が痛くなるくらいの鮮やかさで迫った銀杏や花水木が、今日は黄ばんで褪せて見える。ざあっと耳元を撫でていく風が温い。靡いて頬に落ちかかった髪をかきあげて後ろに流す。指に絡まる髪はじっとりと重い。雨が降りそうだ。
 風をはらんで膨らむシーツは、洗濯したてのはずがどうも色味がすっとしない。天気が好くないせいだ。空は薄い雲によって切れ切れに覆われている。光はたしかに降ってくる。けれどもそれはずいぶんとしらけてよそよそしく感じられた。
 洗濯バサミを外して、物干し竿からシーツを取り込む。木綿の布地は想像した通りまだ薄ら冷たいままだった。洗剤の匂いがする。もう少し干していたいけれど、このあと天気は更に崩れる見込み、という予報を聞いた。ひとつため息をついて、ばっと両手を広げる。どの色も現実感を持たない視界の中で、やはり真剣みのない白が流れはためく。
 強い風が吹いた。あ、と思ったときにはもうシーツは風に絡めとられていた。シングル半の大きなベッドを覆う大きなシーツが、生き物のように空を舞った。次の瞬間には屋上のコンクリートの上に落ちて、もがきながら不恰好に転がっていく。すぐに屋上の端に到達して、視界から消えた。落ちてしまったのだ。
 あっけにとられていたのは数秒で、「拾いに行かなければ」と思う前にもう階段を駆け下りていた。
 せっかく洗濯したというのに、雨ざらし吹きさらしの屋上をあれだけ転げまわれば、もう一度洗いなおさないことには上に寝られそうにもない。屋上だけならまだよかった。道路の方に落ちたとなると、車や人に踏まれていることも考えられるだろう。すぐに取りに行ったとしても、休日の昼下がりだ。あまり奇麗な状態で拾えるとは思えない。自分のうかつさを悔やみながら道路に下りて、低気圧の強風の中でどこかに落ちているはずの白いかたまりを探した。
 シーツは運動公園の中にあった。まだ人に踏まれたような痕跡もない。安堵して、けれども洗濯しなおさなければならないことに変わりはないのだと思いついて気が萎えた。
 拾い上げると、ぱらぱらと砂が落ちた。運動場だけあって、水はけの良さそうな粒のそろった砂だった。粘着力のあるものではない。叩けばだいぶ落ちるだろう。ある程度奇麗にしてから部屋に持って帰ろうと、ぐるぐるに絡んでまるまったシーツをほどいて広げると、はらり、と一枚の紙切れが地面に舞った。
 それは象牙色をしたカードだった。HAPPY BIRTHDAY、と青で印字された下に、手書きの黒文字の一行が添えられていた。
 「五月のばらを愛するように、きみに誠実であろうと思う。」
 はじめ無感動に、そして次につくづくとその文字を見詰めた。シーツが屋上から落ちて運動公園まで転がってくる間に、どこかから引っ掛けてきてしまったのだろう。しかし返すあてもない。
 カードを裏返してみた。プロヴァンスローズが一輪、描かれていた。
 表に返してみる。そしてまた、裏に返してみた。
 風が温く耳元を撫でていった。いつの間にか落としてしまっていたシーツを拾うと、指先に感じた水気が気化して、すっとするような涼やかな気持ちになった。
 わたしはカードをジーンズのポケットにしまった。シーツを抱えなおし、運動公園からマンションに向かった。シーツは奇麗に洗いなおしたら、乾燥機にかけてすっきりしよう。
 自分の部屋に上がる階段の途中で、ぽったりと目を引く桃色の花びらを見つけた。
 拾い上げると、かすかに動いた空気の中に、甘いばらの香りを感じたように思った。
 指先に触れた花びらはしっとりと、動物の舌のようにしなやかだった。

<<  前      目次     次  >>
初日から日付順
最新



My追加