文
- 老いの楽しみ
2004年03月24日(水)
手に持った紅茶の缶が熱いような気がして、思わず手を放した拍子に自分も夢から転げ落ちていた。 カン、と鼻から抜けるような音が響く。一瞬思考が停止して、台所に立ち尽くした私の目の前で、細かく刻まれた茶葉は散り散りに飛び出した。 「何の音」 がらりと戸の開く音で再生ボタンを押された私は、居間に振り向いて反射で笑う。 「手が滑っちゃった。ごめんね、すぐ片付けるから」 なんだ、と、そう気も無い様子で男はソファに座り直す。開け放たれた引き戸の向こう側で、さもこの家の主人であるかのように振舞っている人間が、ただの他人だと突然に気付かされた。だからといって何をどうすることも、今この瞬間にはできないのだと思いながら床の上を片付けはじめる。指先に触れた銀色の紅茶缶は、当然のように熱くも冷たくもなかった。 温めたカップの中に茶を注ぐ。その仕草が美しいと、以前は男はよく褒めてくれていた。私は小さく笑った。夢見がちなのだ、とわかっている。褒め言葉ひとつで舞い上がっていられた昔というのは、そう遠いものではなかった。何がきっかけで冷めてしまうのか、いつも自覚した頃には遅い。ただ、性格なのだ、と思うしかなかった。何度も失敗して、それでもまだきちんと学習できていない。 天井の低いキッチンに、フレバリーティーの強い香りが立ちこめる。プレゼントされるものは、昔から紅茶が多かった。私の唯一の趣味らしい趣味で、それを知った男はすぐに何かと機会があるたびに珍しい銘柄の紅茶を探し、贈ってくれた。この紅茶は、たしか真夏に旅先で選んだものだった。専門店でひとつひとつ缶を開けてもらって、あれこれと香りを楽しみながら二人で決めて、買い上げた。午前の早い時間に店に入ったのに、外に出ると日が高く上がっていた。目映さに目眩を起こした。柑橘系の鋭さが、あの日のじりじりと焦げるような熱までもを思い出させた。 二人分をトレイに乗せて、居間に入ると男が振り向いた。 「ああ、懐かしいな、なんだっけこれ」 にこやかな顔。けれども、今の私には何も感じることができなかった。 カップから立ち昇る湯気の、ぞっとするような冷たさを男は知らない。ええ、わかるわけがない。 「ブルーレディ」 沈鬱な表情をかくしもせずに言うと、途端に男の表情がくもる。私は続けざまに言った。 「ねえ、もう終わりにしましょう」
「またいつもの発作か。メロドラマのヒロインなんて、そんないいもんかね」 目の前の男は、はあ、とため息をついた。次は、夢見がちな女を妻に選んだことを後悔する夫を、男が演じる番だった。
三十年目の結婚記念日を二日後に控えた、ある日の話。
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