文
- 金魚
2004年01月20日(火)
振り返るとそこに…… そこにあったのは、梱包すらも解かれていない引越しの荷物だった。二、三瞬視線だけを動かして、部屋のあちらこちらを見遣る。ちろり、ちろりと眺めるそこかしこには、ただ無造作な白だけしか無い。こくり、と首を鳴らす。ため息をつく。そして、また首を巡らした。 壁の白い部屋を選んだのは実家の母親だった。引越しの当日になるまで、自分の目でこの部屋を見たことは無かった。ずるり、と膝を床に這わせる。安座をくんで見渡していた部屋の眺めが変わる。カーテンを吊っていない窓から差す光と、視線の交差する角度が変わる。少しだけ傾きはじめた外からの光はかすかに黄味を帯びていた。しかしまだ白い。 白い箱から白い家具を取り出す。部屋を見る前から、家のものは皆、白にすることが決まっていた。ベッドのパイプは白。ブックエンドは白。掃除の手袋は白。引越し前に母親が床を白に塗り変えていった。黄ばんだ光から作られた影は、そこだけぽつりと灰白に映る。くるくると光の角度が変わる間に、白い物から白い物を際限なく産み出していく。白いコップと白いタオル、白い洗面器を出して、白い床の上に置く。白い壁時計と白い写真立て、白いカレンダーを壁と比べて眺める。白いさじと白いエッグスタンドと白いナプキンホルダーを白いテーブルの上に並べる。白いスタンドライトに白いあかりを灯して白い写真の白い裏側に、白い文字を指でなぞる。ため息をつく。外光と風にさらされたままの白い窓枠を見て、白いカーテンをいつか買おう、と思った。陽が傾いてきている。スタンドライトしかない部屋は、そのうちに青く沈むだろう。と、天井を見あげる。灯すべきあかりがまだ無い。 箱の中身があらかた出尽くすと、部屋の中がだいぶ騒がしくなった。白い物がぶつかってごとごとと笑い声をあげる。ぐつぐつと何か呟いている。ぶくぶくと呼吸をしている。もうすぐ青から紺へと染まる、その前に、あとひとつだけ、箱の中から取り出さなければならないものがある、と気付く。さて。 さて、そして男はそろりそろりと白い物と物のあいだに沈黙を流し込みはじめた。ひたひた、ぷくぷくと白い物が沈みはじめる。まぶたをひとつひとつ閉じさせて、天井の電灯のかさの上まできっちりと紫紺が詰まったところで、部屋の底の小さな箱をゆっくり開く。 つい、と泳ぎ出たのは金魚だった。ゆらゆら、ふらふらと濃密な闇をすりぬけていく。ふらり、と振り返ると、そこにはぼんぼりのような背のあかりがひらめいていた。
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