文
- カサブランカ
2004年01月24日(土)
奇麗な石ですね、とほめられるたびに、「母の形見です」と笑顔で応えていた。銀の鎖に下げられたヘッドは私よりもずっと長く生きている。祖母が若い頃に人から贈られたものだ。鎖はもう何度も切れて取り替えられているけれど、美しさは薄れない。ムーンストーンのペンダント。 本当なら、これは私がもらうべきものではなかった。
いつの間にか夏になっていた。紫陽花が群れて咲く田舎道のそこかしこで、日の光よりも白い蝶がひらひらと舞っている。 祖母の家を訪ねるのは久しぶりだった。大学を出てからそのまま進学先に留まってしまった私は、きっと恨まれているだろう。高校まで住まわせてもらっていた古い家は、今ではすっかり寂れてしまっていると聞いた。老人ひとりきりでは支えられるものでは、ない。 「おばあちゃん、久しぶり」 日よけ帽を下ろしてあいさつをすると、家の奥で空気の動く気配がした。 「よく、来たね」 祖母は笑うでもなく、すげなくするわけでもなく、ただ凛と私を迎えてくれた。
写真の中で、祖母はいつも花に囲まれていた。祖父の写真はどこにもない。不自然に所々が抜けたアルバムは古びて、写真もずいぶんと黄ばんでしまっている。 「私のおじさんという人が軍医でね。私の母親と二人きりの兄妹で子供もなかったから、可愛がられたわ。花はその人が贈ってくれたものよ」 今年で七十になる祖母は、若々しいというのではないけれど、品の良さだけは若ころから少しも変わっていないと思う。写真の祖母は、静かに笑っている。 田舎の夜は騒々しい。音はみんな生きるものの声だ。蝉、蛙、梟、遠くでは水が流れている。空気はぼんやりと熱を帯びている。ただ月だけが済ました顔をしていた。 畳の部屋に独りになって、私は母のことを思い出そうとした。穴だらけの祖母のアルバムの中で、母の写真は後半の数ページを余す所なくうめていた。祖母が母と一緒に腕に抱いていた花は、カサブランカ。 ペンダントヘッドの石を、薄暗い部屋の中で月にかざして見上げてみる。凝った細工の銀の台座の裏には何かの模様が彫り込まれているけれど、見えない。母も、それが何かは教えてくれなかった。 石を透した月の光は鈍く、夜と同じにぼやけた輪郭で私の顔を照らしているのだろう。 母は。 母は、どこへ行ってしまったのだろう。 最後に連絡を受けたのはもう去年の話になってしまった。飛行機は雲の透間の中に滑りこんで、そして落ちた。生存者のリストに、母の名はたしかに載っていたのに。 私に預けられたペンダントは、まだ返す相手を待っている。
書類上の母の命日。私は寝つけずに月を見ている。
***
「また来るから。次は、秋くらいかな」 結局眠れないまま母の墓に参って、私は祖母の家を去ろうとしていた。 努力して笑顔を作るけれども、祖母にはきっと見破られているのだろう。 「時間が取れたらでいいわ。向こうでも、体に気をつけて」 祖母は静かに言い、笑った。
真夏の日差しが強すぎて、日よけ帽からはみ出した肩や腕をじりじりと焦がした。ふう、と息をついて、冷たさを求めて無意識に手をやった胸の上で、かちり と小さな音がした。おどろいてペンダントを服の上に引き出すと、ヘッドの台座から石が落ちていた。石を探さなくちゃ、拾わなくちゃ、そう思うよりも前に私の目を奪ったものは、そこだけ錆のない、銀の台座の裏側の彫り込みだった。カサブランカ。 わけもなく悲しくなって、何をというわけもなく泣きたくなった。痛みさえ感じるほどの夏の陽の下で、ただ昨夜の月が恋しかった。 石はもう、どこを探しても見つからなかった。
一週間後、仕事で行ったモロッコで母を見つける。母は男になっていた。
/三題話「月」「カサブランカ」「透間の中」
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