文
- 裸足
2003年04月20日(日)
ぺたり、ぺたりと遠くで足音が響いている。ベッドの上で仰向いたまま目も開けず、意識だけをするりと玄関に向けてみた。 ぺたり、ぺたりと足音は続く。これは夢の続きだろう、そう思う意識はまだ瞳の上にある。瞼の裏を覆っているのは闇か。真っ暗の膜の中を意識はふらりと歩みだす。ぺたり、ぺたりと己も足音を立てていることにようやく気付いた。
生まれたところは都会のただ中で、そういえばあの頃の自分の世界は六畳ひと間と宿舎の前の公園、預けられていた保育園だけだった。知っている人間は両親と親戚が片手の指ほど、あとはどこを見ても知らないものばかり、そんなことも認識しようもなく、ただそう、幼かった。 意識はほてほてと暗闇を歩いている。足の裏には平らで滑らかな地平が広がっている。眠っていた自分は裸足だった。ほてほて、と歩くその足裏で、ぺたり、ぺたりと音が鳴る。空気は温く、遠く草の芽のにおいがした。 暗闇に切れ目は無い。意識はぼんやりと目黒に住んでいた頃の自分を思い出していた。共働きの両親の勤め先は郵便局と病院とで、いつからよそへ預けられるようになったかは覚えていない。保育園へはいくつ行っただろう、三つくらいは変わっただろうか。はじめは母さんの病院の裏の、次が中央町で、次が。 ふと気付くと、足の下の感触がいつの間にかはっきりとしたものに変わっていた。小さな四角と四角の間、セメントで埋められた部分だけざらりと指を掴みこむ。これは、玄関タイルだ。 立ち止まって、振り返る。ぺたり、と足の下で音がする。ささやかな音。小さな足だ。ぺたり、ぺたりと歩む自分の足裏は、全面がタイルを吸い付けている。土ふまずのない子供の足だ。突然わっと光に包まれる。あーん、あーんと泣く声。消毒のにおい。広い靴脱ぎ。ガラス扉。明るさに瞼を閉じる。 「帰っておいで」 顔を上げると、光に輪郭のぼやけた背の高い男の姿。遠く、あれは父だ。 「ほら、靴を返してくれないと、行けないだろう」 また下を向くと、ぶかぶかの大きな靴をはいていた。 ああ、そうか。
「ちゃんと迎えに来るから、いい子にしておいで」
ぐっと子供用スモッグの裾を掴み、くるりと振り向いて駆け出す。 かぱこぽ、と足元で靴が不揃いの音を立てた。 ガラス扉が両側に開けば、広い世界が待っている。 明るくて知らないものだらけの外の世界には、けれども父さんも母さんもいない。
「行っちゃ、やだ」
あーん、あーんと泣く子供の声。あれは、私の声だ。 靴を無くして、どこにも行けなくなったらいい。私を置いていかないで。 新しい保育園は奇麗で明るくて、でも不安で仕方がないのに。
***
意識はほてり、と立ち止まった。瞼を押し上げる先にぼんやりと陽が灯っていた。のろりと瞳をめぐらして、また目をとじる。起き上がる気はしなかった。 久しぶりに過去の記憶を夢に見て、温い疲れが体にまとわりついているような気がした。それでも悲しいと思うことがなくなったのは、時間が経ったということなのだろう。父が死んで二年になる。 えい、と起き上がる。ぺたり、とついた両足の下で、フローリングは冷たかった。カーテンを開けて光を取り込む。机の上の写真立てにちらりとあいさつをする。 写真の中では、丸眼鏡の父がぼんやりと笑っていた。
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