文
- まちぼうけ
2003年04月15日(火)
奥座敷の客はようやく帰り支度を始めた。することがなくなってぼんやりと流しの水道口から滴るしずくの数をかぞえていた。ひとつ、ふたつ、みっつ、数が増えるたびに頭の中で渦がまく。ごじゅうろく、ごじゅうしち、ごじゅうはち、まできて目の前を白い腕が横切る。五本指が蛇口にからみついてまわる。水がとまった。 がやがや、がたがた、と人の動く音と声が絶え間なく聞こえ続けている。下げなければならない皿やグラスの数を考える。ひとつ、ふたつ、みっつ、とそこで客のひとりに声をかけられた。 「すいません、お茶、一杯いただけますか」 反射で口角が引きあがる。意識は頭蓋の中、淵のほとりに置き去りにしてきたままだ。「はい、少々お待ちください」湯のみを出して厨房に連絡。「緑茶ホットでお願いします」湯のみが並ぶ調理台の上を見る。むっつ、ななつ、やっつ。 湯のみに一杯ちょうどの茶をやかんに移す。火にかける。コンロから出る蒼い炎の数を見えただけ数える。ここのつ、とお、じゅういち。 時計が十一時を示している。閉店時間まで三十分ある。奥座敷の学生たちはひとりふたり、さんにんよにん、ちらほらと連れ立って廊下を歩く。白い腕の店員が笑顔で人を流す。「ありがとうございます」早く出て行け、酔っ払いめ。やかんが鳴った。 床は木目の床紙を貼ってある。硬いものを落とすとやぶける。酔っ払いは床の上を泳ぐ。すべる。流れる。 カウンターの上に、湯のみが置かれる。密度の高い熱が湧き上がっている。あれに触ったら火傷をする。あの水蒸気の中の水の分子の数は、いちおく、におくさんおくよんおく。 「ありがとうございます」頭の中の水辺が波立つ。渕に立つ自分はまだそこでぼんやりとしている。頭蓋の中に閉じ込められた脳の細胞の数は、今日見ただけの水のしずくは、湯のみ、酔っ払い。 「ありがとうございます」天井のオレンジの光。カウンターの赤みの茶色。マスターの服の青。酔っ払いの顔。カクテルの赤。 「ありがとうございます」最後の客は座敷の注文用のメモの束を持ったまま外へ出ていった。片付ける皿の数を思う。グラスの数を思う。残された料理と酒の色を思う。頭の中で水が揺れる。まばゆいのは眠いから。 ふりかえって、カウンター。湯のみの中では取りのこされた茶がうずくまっている。くすんだ淡い緑に、寂しさだか安定だかを見た。
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