ねずみの子
     2002年10月11日(金)

 そのとき弟は小学生で、わたしもまた小学生でした。
 当時通っていた小学校は隣町にあります。わたしが小学三年生のとき、両親が新居を手に入れてこの町へ引っ越して来ました。けれど、この地区の子供が通う小学校と、もとからわたしの通っていた小学校との距離はほとんど同じと役所で言われ、面倒な手続きを嫌った父はわたしに越境通学をさせていました。小学校まで、子供の足では片道一時間かかりました。歳を重ねて成長するにつれ、そう大変な道のりではなくなっていきましたが、弟が同じく越境入学すると、歩調のまったく違う小さな弟の手を引いての登校は、煩わしくてなりませんでした。
 わたしと弟は五歳違いの姉弟です。ですから、一緒にその道を歩いたのは、わたしが小学六年生、弟が小学一年生だったその一年のあいだだけでした。
 小学校へは、国道沿いの道を歩いて通っていました。沿いの道、というか、国道の両脇の狭い歩道です。国道は四車線で、そのころまでにわたしが見て覚えていた道路の中で、一番広く大きなものでした。夕方、学校から帰るときには、たくさんの車が走っていました。道が多少空いている朝の早い時間帯には、競うものも無いのに高速で駆け抜けていく薄っぺらの車をよく見ました。派手な色の車が多かった気がします。
 小学校には登校班、下校班という学年縦割の班がありました。わたしも、今の町に引っ越してくる前までは、六年生の班長と五年生の副班長に挟まれて、四年生の男の子、二年生の女の子と一緒に毎朝学校へ行くことに決まっていました。実際に班で登校した記憶はほとんどありません。わたしは寝坊が多かったし、人に合わせるのが嫌いでした。
 今住んでいる学区には、同じ小学校へ通っていた子供はいませんでした。弟が七歳になって幼稚園から小学校へ上がるまで、当然、わたしの班はわたし一人きりでした。


* * *


 わたしの生家は国道の脇にあります。国道が通っている土地は、もともとは田んぼや畑の広がる平らなところだったようです。いつ国道ができたのかは知りません。わたしが生まれるよりだいぶ前なのだと思います。
 わたしの家のすぐ前に、小さな空き地があります。国道は田んぼや畑より少し高いところを走っており、道路と田舎道の間を埋めるように、空き地が土手の形になだらかな斜面を作って続いています。国道を作ったときに土を盛ったものらしいのですが、それからは特に人の手が入るでもなく、かといって完全に自然に返ることもなく、長いこと変わらずに今に至っているようです。冬には枯れ草、春夏秋には強情そうな青草がみっしりと地面を埋め尽くし、たくさんの虫が年毎に湧き出で死んでいきます。
 春になると、子供がたまに段ボールを持ってやってきます。土手の上からそり遊びをしようとするのですが、勾配がゆるやかすぎるのか、うまくすべることができません。大人に見つかるとすぐにやめます。叱られたくないからです。その空き地は生き物のほかにごみも多く転がっており、特に割れたガラスや破けた金属の缶など、触ったら危ないと大人が考えそうなものが山ほどあります。草の上にただ腰を下ろすだけでも、虫を潰さないか、体に刺さるものはないか、よく見回さなければなりません。
 斜面の横手を、小さなトンネルが通っています。地区の小学生からは「呪いのトンネル」と呼ばれています。その暗いトンネルをくぐるときには息を止めないと呪われる、というのが、児童たちの間の常識でした。ほんの二、三十メートルほどの長さしかないものですから、焦って走らなくとも普通は余裕で通過することができます。それだけに、うっかり息をしてしまうとばかにされました。たった一学年でも、体と頭の成長に開きの出る小学校のことです。登校班の中の低学年の子供が失敗すれば、中学年の子供があげつらって笑い、高学年の班長や副班長がそれをたしなめます。けれどもその最高学年の六年生までが、トンネルを通らなければならないときには、なんでもない顔を作りつつ息をこらえて行くのでした。


* *


 弟がねずみの子を拾ってきたのは、冬休みに入る直前のことだったと思います。わたしが学校から帰ってくると、玄関先に緑色の透明プラスチックでできた植木鉢が置かれていました。脇に、まだ新しい黒のランドセルがあったので、すぐに弟のものだとわかりましたが、その弟の姿は近くには見当たりませんでした。
わたしの両親は共働きで、昼間には家は無人になります。ですから、ほかに帰る当てがあるわけでもないわたしと弟は、家の鍵をそれぞれひとつずつ与えられていました。
 弟はよく鍵をなくしていました。そして大抵の場合、鍵は弟の部屋で見つけられました。大切なものだから、なくさないようにきっちりランドセルにしまっておきなさい、父にいつもそう言い含められていましたが、大切なものだからこそ、弟はいつも手に持ちポケットに入れ、暇になると取り出して眺めたり玩んだりしていました。そのうちに、鍵は父に取り上げられて、紐でランドセルに結び付けられました。それ以来、弟は小学校を卒業するまで鍵をなくしませんでした。
 弟は小学一年生だったので、当時六年生だったわたしよりもずいぶん早くに授業を終えて帰ります。玄関の外に放り出されたランドセルともほかの荷物とも、すっかり顔なじみでした。
鍵をあけて家に入り、自分の荷物を下ろして玄関に引き返しました。弟の荷物を放っておいては、あとで母に叱られることがわかっているからです。面倒だと思いながらも、タイル張りの冷たい玄関に置いていかれた荷物をひとつひとつ拾い上げていきました。
 そのときになって、わたしはようやくその小さな動物に気がついたのです。何気なく覗き込んだ緑色の植木鉢の底に居たのは、朝顔でもヒヤシンスでもなく、三匹の、親指ほどの大きさしかないねずみでした。
 ぎょっとしました。瞬間、鉢の縁を掴んでいた指を放しそうになりましたが、すんでのところでこらえることができました。
 ねずみは、細かい手足の指をかすかに動かしていました。
 生きていました。


* * *


 わたしと弟は世間的に見れば仲の良い姉弟なのでしょう。たしかに、ここ数年はほとんど喧嘩もしていません。けれどもそれは、お互いがお互いを尊び合い、信頼しあっているゆえのものではありません。
 ただ、互いが可哀想でならないだけなのです。


* *


 国道沿いの土手のような空き地のような、あの草原で拾ったのだと、弟は言いました。段ボール滑りをしようと思って行ったら、大人が犬を連れて来ていたのだと。犬はしきりに地面を掘り返していて、その飼主らしい大人が、犬の掘り返す穴を覗き込んでいる。それに興味を持った弟が覗き込んだら、ねずみの子が三匹、穴の奥でうずくまっていた。
 弟の言葉は今ひとつ要領を得ませんでしたが、恐らくこんなところだったと思います。そんなことよりも何よりも、目の前にいる三匹の子ねずみの方が、よほどわたしの関心と興味とを惹きました。それまでに、わたしはあの子ねずみよりも小さな、生きた動物を見たことがありませんでした。
 ねずみは体中がやわらかい灰白色の毛で覆われていて、口元と目元、耳の内側と尻尾にだけ淡い紅色を持っていました。植木鉢の中に順に敷いた土とくず紙の、その上に三匹、丸まって寝ていました。ねずみの子は三匹とも生きていましたが、あまり具合がよさそうには見えませんでした。それでも、わたしは物珍しさと好奇心とに負けて、ついつい手を伸ばし掬い上げてしまいました。
 そのねずみが本当に子供だったのかどうかもわかりません。わたし自身がまだ十二歳でしたし、家には調べられるような本がひとつもありませんでした。生きているねずみを見たのも初めてでした。
 ねずみに重さはほとんど感じられませんでした。わたしの手の中に本当にねずみが居るのか居ないのか、存在を確信することができたのは、ただその体にたしかな温もりがこもっていたからです。体長は四センチばかり、体の幅も三センチあるかないか、円く、小さく、頼りないその体を覆っているのは、ただのやわらかい皮膚と毛だけなのです。その小さな体で、どうやって熱を絶えず発し続けることが出来るのか、考えても到底納得することなどできないと思いました。不思議で仕方が無く、一方で毛が太るような畏怖と感動がありました。
 わたしはどうしても、そのねずみを家で飼いたいと思いました。この子はわたしがいないと駄目なのだ、きっともう親もいない。元の巣穴に戻したところできっとすぐに死んでしまうだろう。
 三匹いたねずみのうち、体の大きな一匹がひどく弱っていました。体には目に見える傷はひとつもありませんでしたが、ほかの二匹に比べて拍動があまりにも弱く、ひどくぐったりとしていました。ねずみは三匹とも、ちゃんと自分たちの足で立ち上がることができないようでした。まだ歩くまで成長していないせいなのか、それとも体を起こすこともできないほどに駄目になっているのか、わたしには知りようもありませんでした。
 わたしは加減をしらない子供でした。それに、途方も無いほどばかでした。けれども、その死にかけのねずみの子を、どうにか生かしてやりたいと思っていました。
 ねずみの子が何で育つのか、地面の下で何を食べて生きるのか、今でもわたしは知りません。とにかく、子供は乳をもらって生きるものだと思いました。わたしは牛乳を温めて、いちばん弱っていたその大きな子に与えようとしました。最初は綿棒で、それが口に入らないとわかると、今度はちり紙のすみ角で。
 どちらにも、血と泥のようなものがつくばかりでした。
 弱りきっていたねずみの子は死にました。本当に弱っていたから死んだのか、それともわたしが無理をしたから死んだのかはわかりません。たちまちのうち、するすると熱が抜けていって、やわらかかったはずの毛皮の体の中には、骨がやたら固くごつごつして感じられました。どうしようもなく、気持ちが悪かった。わたしが殺したのでしょう、ええ恐らくそうです。


* * *


 わたしには妹がいました。弟にとっては姉になります。
わたしも弟も、あまり妹のことを口に出しません。弟は、もしかすると覚えていないのかもしれません。わたしも、鮮明な記憶としてはもう思い起こすことができません。体の大きな子でした。姉であるわたしよりも、弟よりも活発で明るく、優しい子だった気がします。
 今はもういません。死にました。不幸な事故でした。


* *


 夕方、家に帰ってきた母に、弟はねずみを見せました。母はねずみを見るなり「まあ、可愛い、」そしてすぐに「でも、元の場所に返してくるのよ」とわたしに向けて言いました。家で飼いたい、という弟のお願いは聞き入れられることはありませんでした。わたしは黙っていました。
 家は建てられて四年目に入ったころでした。真新しいとはいえませんが、多少潔癖の気がある母の手によって、ずいぶんと美しいままの状態を保っていました。そこへわざわざねずみを住まわせることなどないのです。
 弟は泣いたり怒鳴ったり、ずいぶん長い間ごねていましたが、結局は言いつけられたとおり、国道を歩いてねずみを返しに行きました。
 けれど、返す当てなどなかったでしょう。犬に掘られた元の巣穴は見つかりようもないだろうし、見つかっても使い物にはならないのではないかと思います。ねずみに親がいたとして、もうどこかへ逃げてしまったでしょう。
 家を出るときに持っていた緑色の透明プラスチックの植木鉢は、帰ってきたときにはその手の中にありませんでした。そのことを尋ねると、弟は「あげた」と一言だけ言い、それからしばらくわたしと口を利きませんでした。

 それから何日かしたあとで、弟がねずみを拾ったという、国道脇の空き地に行ってみました。
 緑色のプラスチック鉢は、すぐに見つけることが出来ました。けれども、中にねずみの子はもういませんでした。辺りには掘り返したような盛り土が数箇所あって、犬が最初に掘ったのがどの穴だったのかはわかりませんでした。トンネルのそばに、段ボールが投げ捨ててありました。しおれたヒヤシンスも見つけました。ねずみを入れる前の鉢に何が入っていたのか、それまで考えもしませんでした。無法に伸びた雑草の中の、手入れをされていたはずの花は、少し傾いで葉を垂れていました。植木いじりの好きな父のことを思いました。弟は、無造作にただただ植え替えただけなのでしょうから、根も傷んでしまっていたと思います。
 死んだねずみは、家の庭に埋めました。
 弟は、ねずみが死んでしまったことにひどくショックを受けたようでした。わたしが死んだねずみを乗せたままのてのひらを差し出すと、それをおそるおそる触りました。けれどそれだけで、すぐに生きたねずみの子の方へ駆け戻り、もうわたしとわたしの手の中のねずみを見ようとはしませんでした。
 家の庭のどこへねずみを埋めたのか、うまく思い出すことができません。ねずみの子は、生きているときも目を開けることはありませんでした。それなのに、庭の黒い土を掘って作った穴、その底に横向けで置いたときのあまりの体の小ささ、白い毛皮と白くなった手足と尾と、閉じない口の小さな歯まで、まだ覚えているのです。わたしを見られるはずもない目の、まぶたにかかった土が恐ろしくて、こちらの方も目をつぶって盛り土をしました。
 あのころからかもしれません。
 わたしはときどき、小さな生き物を殺す夢を見ます。

 家は築六年を数えました。母は仕事先で昇進し、家にいる時間が少なくなりました。休日にはほとんど寝てばかりです。母の趣味だった掃除は、今では父の仕事になりつつあります。家事がそんなに好きではない父は、ときどき母に文句を言っています。家事は共同でやろうと言ったのに。お前が忙しいのはわかるけれど。
 家は、昔ほどの美しさは保たれていません。昨年春辺りから、ときどき台所や和室でごきぶりを見るようになりました。今年小学三年生になった弟は、母や父やわたしに呼ばれるたびに飛んでいって新聞紙で叩きます。どこか楽しそうにさえ見えます。
 弟は今日もごきぶりを叩いています。


* *


 そのときの記憶はほとんどありません。何があったのか、恐らく今以上に当時のわたしには何もわかってはいなかったと思います。わたしも若かった、いえ、幼かった。今でこそこの界隈ではいちばんの年寄りになってしまいましたけれど、そのころは本当にただの小さな子供でした。無力です。長女でありながら、弟も妹も守ることが出来ませんでした。
 犬に襲われたのはあれが初めてです。この年まで生きていると、それは何度も危ない目には遭っていますけれど、あのときほど怖いと思ったことはありません。父も母も、いつのまにかいなくなっていました。そのころは、まだ目も満足に見えないような子供でしたし、家の外へ出たこともありませんでした。初めての外の世界は、とても寒かったと記憶しています。
 人間につかまった仲間のことは、家族全員が一緒に暮らしていたころからよく聞かされていました。ですから、一匹だけ取り上げられていった妹がどんな目にあったか、想像するだけで身を引きちぎられる思いです。はじめ、犬に襲われたときも、あの子がわたしと弟をかばうように前に出たから、ここに今わたしも弟も生きているのです。
 あれからずいぶんと時間が経ってしまいました。弟と二匹生き残ったあの日から、苦しみながらもなんとか生きてきました。
 生家の跡の近くに放されたのは幸いでした。死んだかと思っていた母が生きていて、わたしたちの生存を信じ探し続けていてくれたのですから。再会を果たしたときには、妹のことをなんと説明すればよいのかわからずに、ただ涙するばかりでしたけれど……。
 妹に助けられたわたしの命も、もうそう長くはないでしょう。ねずみの身でここまでの長寿を得られたこと、わたしを生かした数々の幸運を、日々感謝しております。
 わたしは今日も巣の中にいます。

 ちゅう。

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