文
- RUNNIN' STAR
2002年06月20日(木)
頭上に広がった雲があまりにも重そうで、手ぶらで歩いているにもかかわらず僕はひどくのろのろとその家へ向かっていた。天気がもっと良ければよかった、そしたらもっと楽な気持ちになれたかもしれないのに。 たとえ、これから会うひとがもう僕を見てくれなくても。抱きしめてくれなくても。
彼女に出会ったのは三週間ほど前のことだった。それまで追いかけていた事件が一応の終決を迎えて、自分の家に帰って眠れる喜びを、僕はかみしめていた。 空はよく晴れていて、真夜中の田舎道からはたくさんの星が見られた。一仕事終えた、という開放感と安堵に背中を押されて、家のある二つも手前の駅に僕は降り立った。 見上げると、一面が宇宙だった。つかみとれそうなほどに近く、名前も知らない星の群れが僕を見ていた。
「キレイ」
その時、無人だと思っていたその駅のホームに、自分以外の人間がいることに気付いた。その姿をみとめて、まず最初に訪れた感情は「驚き」だった。彼女は、正確にいえばホームにいたのではない。 線路の上に寝転んでいたのだ。
「流れ星を見たわ、」
独り言だったのかもしれない、今でもそう思う。けれども、彼女の次の言葉が僕の方へ向かって発せられたものであるのは確実だった。
「あなたが、願いを叶えてくれるの?」
線路を拍子抜けした顔のままでのぞきこむ僕と。 何も疑う余地などないのだと瞳で語る彼女と。 それが出会いだった。
三週間、をふりかえってみる。けれども、彼女と過ごした時間の中、間におきた細かい出来事のひとつひとつ、そのどれをとってみても、僕が彼女の願いを叶えてあげられたとは思えなかった。願いを叶える人間は、僕では役者不足だったのだ――今でもそう思う。 確実に冬が近づいているのだろう、あたりが暗いのは雲のせいばかりではない。 冬に生まれた彼女は、どうしても誕生日までに成就させたいの、と言っていた。 その相手が僕でよかったのかどうか。自信を持ってこれで良かったと言い切ることはできない。けれども。 僕は、僕だけは――少なくとも彼女が好きだった。
彼女は二週間前に死んでいる。
ずっと一緒にいられたら。離れることなく誰かの一部になってしまえたら。 彼女の願いを理解することは容易ではなかった。今でもきっちり自分の中の常識と折り合いをつけることができたわけではない。加えて、僕は刑事だから。認めることはできなかった。それでも。 その信念を曲げてしまってもかまわないくらい。 自分が狂ってしまってもかまわないくらい。 彼女のことを想い愛し彼女の理想を、願いを受け入れてみせようと思った。 彼女は僕の中にいる。 ようやく家の前へたどりついた。彼女の家はひどく静かだった。主がいないせいではない。彼女がいた時だって、この家はまったく生きている者の存在を認めてはいなかった。 廊下を歩く。その現場は、この先につづく台所だ。 かすかに金木犀の香りがした。空気は、肌寒いというほどではなく、でも涼しいというよりずっと冷ややかで。 彼女の声がした。僕の中に同化した彼女が至福だと言っている。 君が幸せなら、僕は何も言うことはない。君の流星になれたことが、僕の人生で一番の幸せだ。 君の柔らかな腕も。かすかに笑った口元も。足も、胸も、指も瞳も。 すべて少しずつ、僕の中にある。僕の一部になっているよ。
意外すぎるくらいに冷静な自分に、僕は満足していた。現場を見てとりみだすようでは、彼女の望む流星にはなりきれていないということなのだから。僕は彼女の願いを、しっかり叶えられたのだろう。やっと僕は確信することができた。
一仕事終えた、と心の中でつぶやく。安堵の笑みが口元に及ぶ。
たとえ部分になったとしても、君の体はまだ美しい。 生きた君の魂は、僕の中に同化され。 自分の行く末がわからなくても、僕と君が離れることはありえないから。
部下の一人が持ってきた凶器は大きな牛刀で。 僕と君の同化を見守った、僕の仕事を晴ればれと証してくれるだろう。
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