散書
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要は、要不要の篩い分け。
CGの塗り方や、作曲技法で考えると、わかりやすい話として。 他人のやり方を、ただ猿真似するだけの人、というのがやたら多いなと、創作をやってて感じるわけです。CGのハウツー本が氾濫する絵の世界、ネコも杓子もコード進行の音楽界。 模倣が練習になるのは、初めのうちだけだよな、と思ったりするわけですが、世間様では、そうは思わない方の方が多いようで、○○系、という言い方で表せてしまう画風の絵描きや、曲の作り方について話してみれば、取り敢えずドラムとコードと、それしか言えない作曲者ばかり。 おまえら、自分なりの方法論とか考えたことはないの? と思ったりするわけで。 CGの塗り方にせよ、コード進行という方法論にせよ、それらは長い歴史の中で、先人たちが(っても、CGの歴史はさほどでしょうけど)積み重ねてきたものを、後学の人間が勝手に分類、体系化しただけのものであって、ルールでもテンプレートでもないわけです。それなのに、したり顔をしたがる人間ほど、その鋳型に拘って、新しいものに対し、排他的になるきらいがある。 特に創作では、初心者が取っ掛かりの一例としてそれらを学ぶ分には異存ありませんが、それができていないから駄目、という言い方で潰してしまっては、伸びる芽も伸びません。俺も稚拙ながら、自分でも曲を作るようになって、そういった人たちが集まっているサイトなどを覗いたりするようになって、特に音楽の世界では、そういった傾向が顕著であるのを知り、若干辟易しています。他の試みなど認めないといわんばかりに、みんなが口を揃えてコード、コードと言っているのは、なんかの病気の集団感染のようにすら見えてきます。 触りとしてなら便利なものかも知れませんが、それを絶対視するのは、自分たちの先にある道を、自ら放棄することと同義であると気づいて欲しいものです。「悪魔の和音」とか呼ばれていたという減五度も、ベートーベンだったかが使い始めてからは、広く受け入れられたという話なので、要は、受け入れる柔軟さだと思います。 と、ここまでが前置き。前置きが長すぎて、なんか、こう、書いている側が面倒臭くなってきてしまっているので、読んでいる側には苦痛以外の何物でもないであろう駄文ですが、まあ、一応まとめようかと。 そういった頭があるので、ネットや雑誌で見かける、他の人の方法論については、「ふーん、へー」で済ますように心がけていたのですが、ただ、やはり人の数だけ視点があるということか、読み流すだけではもったいない含蓄も、あるところにはあるのだな、と改めて思ってみたりしました。 人間には目はふたつ、脳はひとつしかないので、個人ではやはり、気が回らないところ、思い至らないところがあるのは必然。ということは、俺のように、自分なりの方法論の構築、のみに拘っていると、他の人が発見して公開してくれている情報を取り落とし、自分で自分を狭い箱の中に閉じ込めてしまいかねないのだと、そんな危険性を改めて認識しました。 つーてもまあ、現在の音楽界に蔓延しているコード依存症に歩み寄ろうとか、そんなつもりは毛頭ないですけど。 つまりは、視野は広く持って、情報は広く取り入れ、その取捨選択をいかにすべきかということで。
ところで、こんなに長々と書きたくなるほど感銘を受けた記事があったのに、読み返してみると、どこでそんなに心を動かされたのか、どうしてもわからないのはどうしてなんだろう。
予定は、予め定めたとおりには進まないものだなあとなんとなく。
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