「暗幕」日記
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2002年03月30日(土) |
私の前提/リンクされたくない理由を想像する |
※日付ずれてます。本日は29日。
「個人攻撃をしない」ことについてtext monkey(free talk 0329)※ログが流れた後に移動するはずのURLにリンクしています。私のスタンスは変わっていません。3月3日の「個人攻撃/人格攻撃をしない」ということは、別の言い方をすればこういうことです。「あの人はこういう人だから」ではなく「あの人が書いたこのテキストを読んだ限りでは」という前提で他人と関わるということです。 ところで、日記には直接該当箇所にリンクしても構わないんですよ。サイトトップの「about」ページの改訂が遅れているのが問題なんですが…。
私の前提 今まで書いてきたことのまとめ。テキストサイトを通じて交流するための。私の姿勢。
- 公の場で文章を発表できる権力の自覚。
たいていの場合自分で声をあげないと無視されているという意味で私はマイノリティであるが同時に、ここで考えや感じたことを公に発表できるという意味で私は一つの権力を有している。このことを忘れないようにしたい。 - 他人の書いたテキストに言及する場合、たとえ挑発的な筆致で書かれていてもその挑発に乗らず、1)相手が何を言いたかったのか理解しようと努め、2)反論はその内容に対してすること。[1)の過程で、相手の文章を自分の言葉で要約し、その解釈で合っているかどうか確認する段階が場合によっては必要になる]
なお、このことは表現について言及する行為を禁止していない。「反論」はできなくても「反応」の一形態ではある。 - 書き手としては、表現を選ぶこと。読む人を感情的に反発させるのは戦略上まずい。
私のテキストは、読者によって評価されるだろう。私が何を、どのように書くかという実際の行動によって、私という人間も評価されるだろう。ここに「前提」として何を書こうとも。 そろそろ日記内全文検索が必要になってきた。ある内容を書いたのは何日前の日記だったか、記憶のみで取り出すのがむつかしくなってきたからだ。ということで備忘録の意味でここにまとめておく。
リンクされたくない理由を想像する- 他のサイト管理者とは関わりたくない。
- 自サイトでコンテンツを発表する以外のことを一切したくない、という人もいるかもしれない。(何でlocalでなく、webでやるのかという疑問は残るが)
- 自サイトに対するリンクコメントについてもコントロールしたい
- リンクコメントも他人が書くものなので、私はコントロールできないと思っている。リンクされたこと、そのリンク形態(コメントも含めて)も自サイトへの反応であろうと私は思う。もちろん、それによって不快になることはある。
関連: ひとこと言いたい(3月28日、『「日記読み日記」の被害者だと思っている人へ』 わたしが書いたコメントにかかわらず、それぞれの考えでそのサイトに評価を下すのではないでしょうか。 そうですよね。紹介文をうのみにするほど、読み手はnaiveではないと思います。リンクコメントから興味をもって別の日記に飛ぶことはあるけど、「言及されてたのと違う話のようだなあ」と感じることあるし。 きつい言い方 思うのは「わたしはこんなに傷ついた」と言ってる人の「傷ついた」ポイントは、ほんとは相手の言い方じゃなくて、批判されること自体なんだろうと。 そういう人もいますね。「この自分に向かって反論されることがあるなんて思いもしなかった」って顔する人。 千絵胡椒さんのレスわたしが嫌だなあ、と思うのは、議論の場に入らない傍観者の位置にいる人が、当事者の言い方に対してあれこれささやきだす場合だけだ。議論の焦点をぼかすだけで意味がないばかりか、当事者の立場をあやうくしかねないと思うから。 傍観者にもそういう影響力がある、ということを自覚してほしいと思っている。 完全に同意。 ぶらぷらす(3月28日、無関心でいられる人には敵わない) 何を言っても「えーわかんなーい、どっちでもイイよー」って言う人には、絶対に敵わないと思う。相手は問題を理解しようとする努力も放棄しているんだから。だからといってホントに何でもいいワケじゃなく、結果が直接自分に影響してくると文句を言うのだ。 私にとってどうでも良いことには触れないことにしている。流れがヘンな方に行きそうになったら、異議申立ては早い方が良いと思っている。
いや、だからそんなことは言ってませんって。 タイピングマニア つまりそれだけ解釈などどうにでもできるし、それは読み手に任せるしかないということなわけで、 この部分は同意します。書くときには誤読されにくいよう努めますがそれはもちろん、自分の言いたいことが確実に伝わってほしいからです。そして、読み手としては、多少表現がまずくても、「この内容をどうしても言いたいんだ!」ということは読み取っていると思いますが(ketketさんに対しても)。
それから、ketketさんの日記について暴言と言ったのは他ならぬご自分で(昨日の日記でタイピングマニアから引用しているのはそういうことです)、私ではありません。私はketketさんのテキストが暴言かどうかわからないので、ご自分で書いていらしているならきっとご自分でも暴言のつもりなのだろうと思いました。 私は自分が暴言を書きまくってる自覚はありませんが、 さて、どっちが本当なのでしょう。
ある意味ブラクラ今非常に困っています。どうやら私の日記に関連する話題が展開されているようなんですが、その日記を私は読めません。IEで開くと9割の確率でブラウザが固まります。OSも2回再起動する羽目になりました。ひらけるときも文字化けしていて、未だに内容が私にはわかりません。 その不具合の原因も私にはわかりません。あるレンタル掲示板は、広告のActiveXのせいでブラウザが落ちるため閲覧すらできないという話を聞いたことがありますが、そのレンタル日記には広告はついてません。同じレンタル元の他の日記では再現されません。レンタルした人が可能なカスタマイズの種類についても私は知っていますが、そのうちのどれが問題であるのか私には特定できません。 こういう場合、「ブラウザが落ちて読めない」ことを日記作者さんに連絡しても良いものでしょうかね。
[追記:0329 12:31]風聞帳でコメントいただきました。 →或る表現の仕方をした、或る言い回しをした、ということそのものが、ひとつのものの見方、ひとつの考えを意味しうる。言い方の品のなさで判断をすべきではないということは、内容で判断というより、表現をきちんと判断するという言い方が適切だとおもう。 (jouno, 03/29, 12:24:14)
「言い方の品のなさで判断をすべきではない」というのは、従来私が用いていた「表現より内容で判断」という表現よりも、私の言いたかった内容を適切に表していると感じます。しかしその代わりに「表現をきちんと判断する」と言うのが良いか私には今判断できません。どういうのが「きちんと」になるのか、千差万別の意見が出そうな気がするからです。
ガラスの文学士とその驚嘆すべき冒険に満ちた遍歴時代(03/29 言葉とコップ)に対する私のレス。 →水とコップのようには、「内容と表現」は分離できない。この比喩を根拠に、昨日私が言いたかったことについて「表現より内容を」と書いたのは適切ではなかったと認めます。「実際、ひとがある言い回しをえらび〜」の段落は完全に同意。では昨日の日記はどのように書くのが適当かについては、時間をおいて考えてみようと思います。 (梅矢, 03/29, 12:50:16)
ガラスの文学士とその驚嘆すべき冒険に満ちた遍歴時代(03/29 2nd 言葉とコップ revision)も参照されたし。 ※ログが流れた後に移動するはずのURLにリンクしています。
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