女の世紀を旅する
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2009年11月10日(火) 森繁久弥さん死去、96歳 

森繁久弥さん死去、96歳 

                      2009年11月10日20時58分




 舞台「屋根の上のヴァイオリン弾き」をはじめ、映画やテレビ、ラジオで幅広く活躍し、戦後芸能界の最前線に立ち続けた俳優の森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため東京都内の病院で死去した。96歳だった。喪主は次男建(たつる)さん。

 森繁さんは、「駅前旅館」「社長太平記」などの各シリーズをはじめ、「警察日記」「夫婦善哉」などの映画、「七人の孫」「だいこんの花」などのテレビドラマで喜劇から悲劇までを器用にこなす多彩な演技で知られた。また、「知床旅情」の作詞・作曲なども手がけ、91年には大衆芸能の分野で初の文化勲章を受けた。

 13年大阪府生まれ。早大を中退し、36年に東宝劇団へ。ロッパ一座を経て39年、NHKに入り、アナウンサーとして旧満州(中国東北部)に渡る。50年、NHKのラジオ番組「愉快な仲間」のレギュラーになり、芸達者なコメディアンとして注目された。

 52年からのサラリーマン喜劇の映画「三等重役」シリーズが出世作となり、「次郎長三国志」の森の石松役のほか「駅前」「社長」などの人気シリーズに出演。ドタバタだけの喜劇俳優とは違う、渋さの中に独特のユーモアをたたえた演技派として評価が高まった。また、再放送を含め、57年から08年まで2千回以上続いたNHKラジオ「日曜名作座」では、間の取り方に工夫を凝らした巧みな朗読で新境地を切り開いた。

 61年、「森繁劇団」を旗揚げし、舞台にも力を入れる。ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」のテビエ役は、67年の初演以来、19年間に上演900回を重ねる代表作となった。自ら作詞作曲した「知床旅情」など、歌手としても「森繁節」と呼ばれる独特の節回しでファンを魅了した。

 56年にブルーリボン賞と毎日映画コンクールの主演男優賞をダブル受賞した後、NHK放送文化賞(65年)、菊池寛賞(74年)、菊田一夫演劇賞の大賞(76年)などを受け、84年に文化功労者となった。97年公開のアニメ「もののけ姫」ではイノシシの長の声を演じ、99年のCD「葉っぱのフレディ いのちの旅」では朗読を担当。近年まで現役で存在感を示した。

 ヨットが好きで、91年に日本一周を果たした。伴淳三郎の後を継いだ「あゆみの箱」の会長や、「アフリカへ毛布をおくる会」の会長など慈善運動にも力を注いだ。


略歴
● 出生
旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て後に実業家となった父・菅沼達吉(1858年 - 1915年)と大きな海産物問屋の娘であった母・馬詰愛江との間に出来た3人兄弟の末っ子。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男・弘(1907年 - 1940年代頃)は馬詰家を継ぎ、次男・俊哉(1910年頃 - 1982年)はそのまま菅沼家を継ぎ三男・久彌は森繁家を継ぎ名字も「森繁」となる。戸籍上の養父は南海電鉄の鉄道技師であった森繁平三郎である。

● 学生時代
堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫と共に活動。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となりアマチュア劇団に加わり築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演した。

●演劇の世界へ
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。座長の古川ロッパに認められた緑波一座では、盟友となる山茶花究と出会う。1937年、退座。

1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。甘粕正彦とも交流があった。満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結ぶ。この頃、新京の劇団に所属していた芦田伸介と知り合う。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。その一方で川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送(見つかれば確実に生きて帰れないほどの接近をしたこともあったという)に行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソビエト連邦軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。

戦後も劇団を渡り歩く。1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年、再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。

1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣ったラジオ番組『愉快な仲間』を放送。メインの藤山の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇(河村黎吉主演『三等重役』)に要領のよい人事課長役で助演。本作は好評を博し、後に河村が急逝したこともあって久彌が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年からマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。

テレビドラマでは、草創期から活躍した。テレビ放送が開始された1953年には、『半七捕物帳』(NHK)や『生と死の一五分間』(日本テレビ)に出演している。

1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。これにより、単なるコメディアンから実力派俳優へと転進する。

1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち第10回は久彌の歌のラジオの音声が現存し、第14回(1963年)と第16回は映像が現存する。第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM『今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で久彌の歌も含め全編が再放送された(音声はモノラル)。第14回と第16回はNHK BS2で再放映されている。

ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。舞台では1959年より「森繁劇団」を結成し、持続的に演劇活動を行う。またミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は900回にわたってユダヤ人・テヴィエ役を演じ、彼の代表作となった。

●晩年
1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。

1989年に満壽子夫人、1999年に長男・泉に先立たれた。長男が行っていた事業清算のため世田谷区にあった大邸宅を売却、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに移り家族及び身の回りの世話をする事務所の関係者と住んでいた。死去前の数年間は年齢・体力的なこともあり、2004年1月2日放送『向田邦子の恋文』が最後の俳優活動となった。1980年代半ば以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も2004年1月にした坂本朝一元NHK会長への弔辞が最後となった。

2002年12月、沖縄県で心筋梗塞で倒れ危険な状態に陥ったが無事に回復した。2003年に90歳を迎えたことを機に作家・演出家の久世光彦と<語り森繁、文は久世>の形で『大遺言書』を週刊新潮に連載し、題名どおり最後の仕事とするつもりだった。だが2006年3月に22歳年下の久世が急逝し終了してしまい、「どうしてオレより先に逝った…」と嘆きその葬儀以来公の場に姿を見せることはなかった。なお単行本は新潮社で4冊刊行された。

2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々久彌自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読したもの)。同年に日本俳優連合の理事長の地位を降り、名誉会長に。

晩年は天気のいい日は散歩や観劇に出掛け食欲も旺盛でフォアグラやステーキ等の肉料理を平らげ、ホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送った(関係者談)。「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表した。

2009年8月、同年7月に風邪をひきそのまま8月3日現在に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に久彌が在住する東京都世田谷区内のイベント「第十一回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。

11月10日、東京都内の病院で死去(老衰)[1]。96歳没。彼の訃報に多くの芸能関係者が追悼と哀惜の思いを込めたコメントを発表した。また新聞の号外も発行され、彼が一時代を築いた俳優であることを知らしめることとなった。


●人物エピソード

久彌という名前は、父が大実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていたことに由来する。
幕末の奥儒者・成島柳北は大叔父にあたる。父・菅沼達吉は大目付・森泰次郎の次男であり、菅沼家の養子となった。泰次郎と成島は松本家の出身の兄弟であり(泰次郎が兄)、それぞれ森家、成島家の養子となっている。
向田邦子が本格的な放送作家となるきっかけを作った。
『知床旅情』でシンガーソングライターとしてもデビューしている。
『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け会員となった。著書は単著で20数冊ある。
泉酒造の商品パッケージに使われている文字にも達筆ぶりが伺える。
岐阜県海津市にある「水と緑の館」の名誉館長でもある。
射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」であったことが射撃界では知られている。芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を長年務めている。
老年に入ってからは、整えられた白い口髭と顎髭を蓄えている。
記念すべき『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストである。放送中に突然黒柳徹子の胸を触り(台本である可能性が高い)、ハプニングシーンとなった。この時の映像は、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われる。
7代目立川談志は、『立川談志 日本の笑芸百選』(NHK BS2)や自身の著書等で「日本最高の喜劇役者は森繁久彌」と絶賛している(ただしすべてを絶賛しているわけでは無い)。
竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友である。無我は久彌と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っている。
久彌の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるにつれてシリアスな演技者となりたがる者が多発したため、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』でそのような傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ小林は同書で久彌は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあったため一時的にそのように注目されたのであってそのため彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。
受賞・受章歴 [編集]
1991年、伝統芸能以外の俳優では初の文化勲章を受章している。

紺綬褒章(1964年)
菊池寛賞(1974年)
紫綬褒章(1975年)
芸術選奨文部大臣賞(1979年)
第1回都民文化栄誉章(1983年)
文化功労者(1984年)
早稲田大学芸術功労者表彰(1985年)
勲二等瑞宝章(1987年)
文化勲章(1991年)
日本アカデミー賞協会栄誉賞(1992年)
日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞(1995年)
東京都名誉都民(1997年)
役職 [編集]
日本俳優連合名誉会長
「水と緑の館」名誉館長
芸能文化人ガンクラブ会長
社団法人「あゆみの箱」会長
関東小型船安全協会会長(初代)


カルメンチャキ |MAIL

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