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2009年06月07日(日) 歴史探訪: 古代ローマ史(1) 王政から共和政へ

《古代ローマ史》





◎【王政ローマ】 Regnum Romanum   前753 〜前510

王政ローマは、古代ローマ当初の政体である王政期を指す。のちに共和政ローマ(前509〜前27)、帝政ローマ(前27〜後476)と変遷する。王政期は共和政の初期とあわせて、歴史よりも伝説の時代と捉えられている。


● 王政ローマの歴史

伝承では後述するように紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国し、紀元前510年に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。ただし、当時のローマは文字を持っていなかった可能性があり、王の存在は主に口承で伝えられ、確実な資料がないとされてきた。ローマという都市名も初代王ロムルスにちなむとされるが、この王については存在すら疑問視される向きもある。ローマという言葉は、エトルリア語またはサビニ語で意味のある言葉だという見解がある。


「王」はラテン語で rex と綴る。伝統的に王のうち、ロムルスを含め最初の4代はラテン系またはサビニ系で、あとの3代はエトルリア系とされている。しかし、これらの王には存在すら疑問視される者もいるし、その人数も定かではない。実際にいた初期の王の事績を何人かの王たちのものとして記録しているという研究者もいる。また末期のエトルリア系の王は4人以上いたと考える研究者もいる一方、かつてはタルクィニウスの名を持つ2人の王は実際は1人の王の事跡を分けたに過ぎないと主張されてもいた。しかし考古学的な考証から、最後の3人の王に関する伝承は、変形されているとしても、何らかの歴史的事実を反映していると考えられている。


●ローマの建国伝承

ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。

トロイ戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウスら)が、イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。時代が下り、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。しかし兄弟の間でいさかいが起こり、弟レムスは兄ロムルスに殺される。この丘、パラティヌスに築かれた都市がローマとなった。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域とした。


●初代王ロムルス Romulus  ※ローマの語源はロムルスに由来

ローマ建国伝説によると、紀元前753年4月21日にロムルスが王になり、ティベリス川(テヴェレ川)の畔に都市ローマを建設した。人口数千人。当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村だった。この最初のローマはラテン人の国だった。

やがて、近隣の部族と争いが起きた。ローマが隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、娘たちを急に抱きかかえて自宅まで逃げてそのまま帰さなかったのである。当然、戦となった。しかし娘たちは隣の丘の男たちに、自分たちは妻としての扱いを受けており、決して虐げられていなかった為、娘たちが争いをやめて欲しいと懇願した。サビニ人の王は和平を承諾し、さらにはロムルスのすすめで一緒にローマに住み共同統治することになった。ローマが初めて領土を拡大した瞬間である。
サビニ人のタティウス王はこののちすぐに死に、その後のローマの指揮はロムルスが行った。
紀元前715年のある日、ロムルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの大雨が降った。雨がやんだのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもなかった。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされた。



● 王政の終焉

王政への反省から紀元前509年から共和政がしかれ、2名の執政官(コンスル)がローマの政治をとりしきった。最初の執政官には、演説を行ったブルートゥスと、自殺したルクレツィアの夫コラティヌスが選出された。この後の歴史は、共和政ローマの歴史となる。
ローマ人の間には「王を置かない国家・ローマ」の心情が刷り込まれており、特に東方オリエントの「専制君主」的な「王」に対して激しい拒絶反応を示すようになった。


● 制度(元老院と民会〈平民会.市民集会)の由来

初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、王の助言機関とした。

ローマに見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤としたことが挙げられる。これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな寒村ほどの規模から出発した新生ローマでの緊急課題は人口増加の必要であり、人口が増えないことには自衛のための兵力すら維持できなかった。実際、このローマの性格こそ、後にローマを強大にする原動力であったと認められている。

さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由民は、ローマ市民として王の選出を含む国家の最高議決機関である民会(平民会)で投票する権利を与えられた。もっとも、この市民による王の選出は、共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。ローマ建国の王であったロムルスも、治世の途中でこの民会の選挙で選出(この場合信任)され、改めて選挙で選ばれて王となった。王の任期は終身であるが、原則として世襲制はとらない。王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が輪番で兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)。


●共和政の開始

紀元前509年、エトルリア人の王タルクィニウス・スペルブスを追放し共和政をしいたローマだが、問題は山積していた。まず、王に代わった執政官が元老院の意向で決められるようになったこと、またその被選挙権が40歳以上に限定されていたことから、若い市民を中心としてタルクィニウスを王位に復する王政復古の企みが起こった。これは失敗して、初代執政官ルキウス・ユニウス・ブルートゥスは、彼自身の息子を含む陰謀への参加者を処刑した。ラテン同盟諸都市やエトルリア諸都市との同盟は、これらの都市とローマ王との同盟という形であったため、王の追放で同盟は解消され、対立関係が生じた。

追放されたタルクィニウス王とその息子たちは王政復古の計画が失敗したことを知ると、同族のエトルリア諸都市から兵を借りローマを攻めた。市内に住んでいたエトルリア人はローマを去り、国力は低下した。一時期、先王タルクィニウスは市を包囲したが、ローマが敗戦を認めないため、攻め込んでも犠牲の多い割に得るものが少ないと考え去っていった。 その後、ローマはエトルリアから学んだ技術を独自に発展させるようになり、徐々にそれを吸収していった。

前4世紀アルプス山脈の北方からケルト人が南下してきた。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」と呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという習慣があった。ガリア人には重装歩兵によるファランクス戦法は通用せず、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、前390年にローマを襲撃して略奪を働いた。この事態はローマ将軍マルクス・フリウス・カミルスによって打開された。



● 身分闘争とイタリア半島の統一

相次ぐ戦争の中で、戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して政治参加を要求するに至った。いわゆる「身分闘争」の開始である。貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利を擁護する護民官を設置し、十二表法で慣習法を明文化した。さらに、前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスル(執政官)の一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、前287年のホルテンシウス法によって、平民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。これにより、身分闘争に終止符が打たれた。 一方でローマはイタリア半島各地の都市の制圧に乗り出した。イタリア半島南部にはアッピア街道が建設され、南部遠征の遂行を助けることになった。この後も、ローマは各地に向かう交通網を整備し、広域に渡る支配を可能にしていった。前272年、南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシア人の植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一を成し遂げた。


● ポエニ戦争

イタリア半島の統一を果たしたローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの100年以上に渡る戦争へ突入した。これをポエニ戦争という。第一次ポエニ戦争でローマはシチリア島を獲得し、この地を最初の属州とした。紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルにカンネーの戦いで大敗したものの戦況を巻き返し、スキピオの指揮のもとザマの戦いでカルタゴに圧勝する。この際、カルタゴ・ノヴァ(現スペインのカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海の征服を果たした。また、カルタゴを支援したマケドニアにも遠征を行い、イリュリアやギリシアを支配下に置いた。この第二次ポエニ戦争でカルタゴは多大な打撃を被ったが、ローマ内部ではカトーを中心に対カルタゴ強硬派がカルタゴを滅ぼすことを主張していた。前149年より第三次ポエニ戦争が行われ、前146年にカルタゴはついに滅亡した。


● 東方への進出

第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。

第一次マケドニア戦争 紀元前215 - 紀元前205年 フィリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。
シリア戦争 紀元前192 - 紀元前188年 セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ。
第二次マケドニア戦争 紀元前200 - 紀元前196年 フラミニヌスによりローマ勝利。
第三次マケドニア戦争 紀元前171 - 紀元前168年 マケドニア王ペルセウスが敗北し滅亡。
第四次マケドニア戦争 紀元前150 - 紀元前148年 マケドニア、ローマ属州となる。


● 属州と共和政の変質

イタリア半島の制圧までのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしたが、組織だった徴税制度は設けなかった。しかし、第一次ポエニ戦争によってシチリアとサルディニアを得ると、属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣した。属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えた。制度のうえでは、属州統治においてもローマは都市の自治を尊重した。しかしその一方、派遣された総督は、ローマの支配を確保する以外の義務や束縛を持たなかったため、収奪のみを仕事とした。

搾取とはまた別に、従属した諸国と都市の有力者は、ローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策とした。結果として、少数の有力政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持ち、ローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになった。ローマ市民は、こうした巨富の流出にあずかる代わりに、共和政ローマの政治家に欠かせない政治支持を与える形で、有力者の庇護下に入った。この庇護する者をパトロヌス (patronus)、庇護される者をクリエンテス(clientes)という。もっともこのパトロヌス・クリエンテスの関係は、ローマの最初期からの伝統であり、帝政期まで長く続く。

対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133年、兄ティベリウスが暗殺された。紀元前123年、弟ガイウスは反逆罪の咎を受けローマを逃げ出すが逃げ切れず自決。改革は失敗した。元老院はガイウス・グラックスの仲間をも処刑。これ以後、共和政ローマは、暗殺と殺戮によって歴史が紡がれていく。


● 内乱の一世紀

第三次ポエニ戦争の後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなかった。(ヌマンティア戦争、ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争、セルトリウスの反乱、3次に渡る奴隷戦争など)。また、初めてゲルマン人がローマ領内へ侵入したのもこの時期であり(キンブリ・テウトニ戦争)、帝政ローマ期を通じローマを悩ませることとなった。

こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があった。その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。彼は長期にわたる征服戦争への動員で没落した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施した。この改革はローマの軍事的必要を満たし、かつ貧民を軍隊に吸収することでその対策ともなったが、同時に兵士が司令官の私兵となって、軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。

はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのは、マリウスとスッラであった。彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、やがて次の世代の軍人たちが登場した。ポンペイウス、カエサル、クラッススは、前60年に元老院の権威に対抗して第一回三頭政治を行なった。クラッススの死後、残る二人の間で内戦が起きた。地中海世界を二分する争いは、前48年にポンペイウスの死で終結した。

カエサルは、紀元前45年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われ、前44年3月15日に共和派のブルータス,カッシウスらによって暗殺された。この後、カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスが、前43年第二回三頭政治を行なった。カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌス(カエサルの姉の息子)は紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合海軍に勝利し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながら元首政(事実上の帝政)を開始した。


● 政治体制

共和政下のローマの政治体制は元老院・執務官(コンスル)・平民会の三者によって成り立っていた。

最も重要な政務官は執政官で、その命令権(インペリウム)は王の権力から受け継がれたものともいわれる。任期は1年で2名が選ばれた。執政官に欠員ができたときには補充選挙が行われるが、新たな執政官の任期は前任者のものを引き継いだ。

元老院は王政期から存在したとされ、その構成員は当初は貴族(パトリキ)のみであった。のちに元老院議員の資格は政務官経験者となり、平民(プレブス)にも開かれ、後世になってそうした平民は平民貴族と呼ばれた。前述のノビレスは、そうした平民貴族とパトリキの総称である。

民会にはいくつかの形式があった。当初は「クリア」と呼ばれる単位によって行なわれるクリア民会が行なわれていた。やがて兵員による「ケントゥリア」を単位とするケントゥリア民会が中心となり、以後最も権威ある民会として機能しつづけた。この他、居住地である「トリブス」を単位とするトリブス民会(平民会)も行なわれるようになり、ケントゥリア民会にも一定トリブスが導入された。

当初のパトリキ(貴族)の支配からノビレス(新貴族)の支配に変わるまでにローマではパトリキとプレブス(平民)の「身分闘争」が行われたといわれている。戦術の変化などによって重要性が増しながらも政治的発言権の小さかったプレブスの間では、パトリキに対する反発が蓄積していた。こうした下層プレブスの不満を背景に、上層プレブスはパトリキから政治参加への妥協を勝ち取り、パトリキと一体化してノビレス(新貴族)を構成するようになった。この過程で紀元前494年にプレブスの権利保護を目的に護民官が設置され、ローマの政務官の一つとなった。護民官はプレブスのみが参加する平民会で選出され、他の政務官の決定や決議を取り消す権利(拒否権)を持った。また、護民官の身体は不可侵とされた。

この他特徴的な政務官としては、非常時のみに選出される独裁官(ディクタトル)が挙げられる。執政官2名の合議によって選出され、他の政務官と異なり同僚制を取らず1人のみが任命される。他の政務官の任期が1年であるのに対し、独裁官の任期は6か月と短く非常事態を打開したのち任期途中で辞任することもあった。独裁官は他の政務官全てに優越し、護民官の拒否権の対象ともならなかった。独裁官は副官として騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)を任命した。


カルメンチャキ |MAIL

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