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2009年06月08日(月) 歴史探訪:古代ローマ史(2) 帝政の歴史

《ローマ帝政の開始》 ローマ帝国の歴史  帝政 前27‐後476年





紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者ブルータスらの打倒で協力したオクタウィアヌスとアントニウスが覇権を争い、アントニウスはエジプトの女王クレオパトラと結んでローマに反旗をひるがえした。


これに勝利(前31年のアクティウムの海戦)を収めたオクタウィアヌスは紀元前27年元老院より「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈られ、帝政を開始した。初代ローマ皇帝となったアウグストゥス帝は,カエサルが元老院(共和政の中枢)を無視したため暗殺されたことにかんがみ,元老院とプリンケプスとの共同統治という政治形態を採用したが,実際はプリンケプスが絶大な権力を持ったので,プリンキパートゥス(元首政)は事実上の帝政にほかならなかった。なお,August(8月)は彼の名に由来。

以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝は実質的には帝政であったにもかかわらず、表面的には共和政を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。それゆえ,この時期の帝政を一般に「プリンキパトゥス」(元首政)と呼ぶが,彼らが即位する際、元老院が形式的に新皇帝にプリンケプス(元首)の称号をおくるという形式をとった。かつて共和政を主導した元老院は単なる協賛機関に過ぎなかった。

皇帝には下記のような称号と権力が付与された。

・「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
・「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー(・ 皇帝)」の語源)。
・「プリンケプス」(市民の中の第一人者.元首と訳す)の称号。本来は元老院において最初に発言する  権利を有する第一人者の意味。
・「執政官命令権」。首都ローマとイタリアに対して政治・軍事的権限を行使。
・「プロコンスル命令権」。属州の総督任命権など。
・「護民官の職権」。実際に護民官には就任していないにもかかわらずその権限を行使した。これには身  体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇  帝はこの権限を利用して国政を自由にあやつった。
・「最高神祇官」の職。多神教が基本のローマ社会において祭事を主催する宗教上の最高職。



● ユリウス・クラウディウス朝と内乱期

このようにアウグストゥス帝(前27‐後14年)の皇帝即位とユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウス帝の死後あたりから、政治、軍事の両面で徐々に悪い変化が起こってくる。軍事面では、共和制末期からの自作農の没落の結果、徴兵制が破綻し、代わって傭兵制が取られたが、それは領土の拡大とあいまって帝国内部に親衛隊を含む強大な常備軍の常駐を促し、それは取りも直さず即物的な力を持った潜在的な政治集団の発生に繋がった。

やがて世襲の弊害により、暴君カリグラ帝(位37‐41年)やネロ帝(位54‐68年.64年のローマ大火を機にキリスト教徒迫害)など無軌道な皇帝が登場し、複数の対立候補が互いに軍を率いて争う内乱も発生、結果、ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝のわずか100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交替が頻発するようになる。

ただし、この時期には、ローマは土木から産業に至る高度な技術を持っていたことで、また合理的な統治機構を持っていたことで、地中海を中心としたヨーロッパ世界の統一とあいまって、国力は躍進を続けており、こうした政治や軍事の緩慢な変化は帝国の運命に即大きな影響をもたらすことはなかったが、後の時代に帝国を著しく弱化させる主因の一つになっていく。

また、悪くしたことに時代が進むにつれて、はじめは俸給や市民権の獲得を目的に、後期にはイタリア人の惰弱化により、兵士に占めるゲルマン人など周辺蛮族の割合は増加し、それらは徐々に軍隊の劣化や反乱の頻発を促進した。

時系列的に起きたことを追うと、皇帝となったユリウス・クラウディウス家の子弟はある者は善政を、しかしある者は暴政を行い、その多くが暗殺や反乱によって非業の死を遂げた。その後、ネロ帝の暗殺を機に帝位継承戦争が発生、一時帝国は複数の軍団に分かれて争い、ブリタニアなどの属州の反乱も誘発したが、やがてウェスパシアヌス帝(位69‐79年)とその子のティトゥス帝(位79‐81年)の善政で,ローマは小康状態を取り戻した。ティトゥス帝が即位した79年にヴェスヴィウス火山が大噴火し,ポンペイ市(ナポリ東南)が埋没。またこの帝の治世にコロッセウム(円形闘技場),大浴場などが完成している。



● 五賢帝の時代(96‐180年)

こうした曲折を経つつも、1世紀末から2世紀にかけて優れた5人の皇帝が輩出し,ローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。

彼らは生存中に秀材を探し,養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、道路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内の流通と経済が盛んになった。

96 - 98年 ネルウァ帝
  後継者にトラヤヌスを指名。
98 - 117年 トラヤヌス帝
 「至高の皇帝」。ダキア(現ルーマニア)を征服し,ローマ最大の版図を現出。東はメソポタミア、西  はイベリア半島、南はエジプト、北はブリタニア(現イギリス)にまでおよんだ。
117 - 138年 ハドリアヌス帝
  内政の整備と、ブリタニアに「ハドリアヌスの長城」を建設。ローマ最大の平和が現出。
138 - 161年 アントニヌス・ピウス
  財政の健全化に努める。
161 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝
 「哲人皇帝」。ストア哲学を学び,『自省録』を著す。晩年は飢饉やペストの流行,ゲルマン人の侵入  に悩まされ、各地を転戦中、陣中で病没し,不肖の子コンモドゥスが即位した。五賢帝時代の終結。

五賢帝の時代を過ぎると各地で反乱が頻発するようになった。これに対処すべく、212年、カラカラ帝は「アントニヌス勅令」によって帝国全土の自由民にローマ市民権が与え,この結果,領民の間にはローマ人と外国人の区別がなくなり,ローマは名実ともに世界帝国となった。これによってローマの都市国家的要素は全て消滅し、反面、貧困なローマ市民を大量に受け入れることとなり、原則的に権利の上では平等であったローマ市民権保持者の間にも階層化が急速に進んだ。



● 混乱と分裂、キリスト教

いわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事である。そのため、反乱の増加に伴って、軍隊が強権を持ち皇帝の進退を左右した。約50年間に26人[4]が皇帝位に就いたこの時代は軍人皇帝時代と称される。

パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方ごとの自立が促進された。


284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首、つまり終身大統領のような存在であった皇帝を、オリエントのような専制君主にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、そうした軍団はしばしば皇帝に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。

しかし、前世紀から顕著であったローマの経済の衰退はこの時期一層深刻化、ディオクレティアヌスは税収の安定と離農を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。

ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して再び単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められた(380年)。

コンスタンティヌス1世は専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブル)に遷都し、コンスタンティノポリスと改称して国の立て直しを図った。しかしコンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。



● 帝国の東西分裂

395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。当初はあくまでもディオクレティアヌス時代の四分割統治以来、何人もの皇帝がそうしたのと同様に1つの帝国を分割統治するというつもりであったのだが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはなく、対照的な運命を辿ることになった。そのため、今日ではこれ以降のローマ帝国をそれぞれ西ローマ帝国、東ローマ帝国と呼ぶ。ただし、当時の意識としては別の国家となったわけではなく、あくまでもひとつのローマ帝国が西の皇帝と東の皇帝の統治管区に分割されているというものであった。


●西ローマ帝国(395‐476年)


ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡した。その後もガリア地方北部にシアグリウス管区がローマ領として存続したがクロヴィス1世による新興のフランク王国領に編入され消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。


●東ローマ帝国(395‐1453年)

東ローマ帝国は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国の統治権を持った。紆余曲折を経ながらも、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでの1000年にわたってローマ帝国の正統な後継者として存続した。


● ローマ帝国の継承国家

西ローマ帝国滅亡後のゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって東の皇帝の宗主権を仰ぎ、東の皇帝に任命された官僚の資格で統治を行った。しかしフランク王国がカロリング朝の時代を迎え、カールが800年教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いたことで、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会ともども、東の皇帝の宗主権下から名実とも離脱した(西ローマ帝国の復興)。ここに後世,神聖ローマ帝国(962‐1806年)と呼ばれる政体に結実するローマ皇帝と帝権が誕生し、1806年まで継続した。

1453年に東ローマ帝国を征服し、滅ぼしたオスマン帝国のスルタンのメフメト2世およびスレイマン1世は、自らを東ローマ皇帝の継承者として振る舞い、「ルーム・カエサリ」(トルコ語でローマ皇帝)と名乗った。ただしバヤズィト2世のように異教徒の文化のオスマン帝国への導入を嫌悪する皇帝もおり、オスマン皇帝がローマ皇帝の継承者を自称するのは、一時の事に終わった。

ロシア帝国はローマ帝国の後継者をもって任じ、皇帝(ツァーリ)を自称するも、国内向けの称号に留まり、対外的には単なる「モスクワ大公」として扱われている。その後、国際的に皇帝と認められるようになるが、ローマ帝国の継承者としての皇帝という意味あいは忘れ去られていた。


● ローマ帝国の滅亡

ローマ帝国という名称を名乗る国家としては、神聖ローマ帝国が1806年の帝国解散の詔勅による滅亡まで存続しているが、既にこの当時はドイツ民族による大小の国家連合体となって長い時間が経過しており、帝国解散の詔勅自体が「ドイツ帝国」の名で出されている上、旧東西ローマ帝国の滅亡時に正統な後継国家として認証されている訳ではない、自称ローマといえる。

また東ローマ帝国はギリシア系住民が多い地域を支配していたために、古代ローマ時代に比べてギリシア文化の影響力が強くなり、古代以来の統治機構がイスラムの侵攻などによって崩壊したことなどから、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。そのため同時代の西欧からも「ギリシア人の帝国」と見なされ、後世からも「ビザンツ帝国」(首都コンスタンティノープルの旧名ビザンティウムにちなむ呼称)と呼ばれる場合が多い。

そのため単に「ローマ帝国の滅亡」と言ったときには、476年の西ローマ帝国の滅亡を指すのが一般的である。

ただし、東ローマ(ビザンツ)帝国は分裂以前のローマ帝国から断絶なく連続している政体であり、西ローマ帝国の滅亡後も神聖ローマ帝国成立までは西欧からローマ帝国とみなされていた。いつの時点をもってビザンツ帝国へと変質したのか明白に定義づけができないため、冒頭で述べたエドワード=ギボンのように、東ローマ帝国の滅亡(1453年)をもってローマ帝国の滅亡と考える学者も多い。

一方で古代ローマがローマたる所以はローマ市民と元老院にあるという考えから、ユスティニアヌス1世
(位527‐565年)の征服事業によって東ローマ帝国がローマ帝国旧領を奪還(555年ゲルマン系の東ゴート王国を滅ぼし,イタリアを征服)した時期を、ローマ帝国(ローマ世界)の滅亡と考える見方もある(「ローマ人の物語」の著者の塩野七生など)。



カルメンチャキ |MAIL

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