女の世紀を旅する
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2006年12月21日(木) 塩野七生『ローマ人の物語』全15巻完結

塩野七生「ローマ人の物語」全15巻完結
                    2006年12月20日


塩野七生(ななみ)さん(69歳)がとうとう『ローマ人の物語』(全15巻)を完結させた。日本のみならず,韓国でも彼女の本は刊行するたびに翻訳され,ベストセラー入りするほどの人気らしい。並外れた行動力と知的好奇心のなせるわざで,一人の日本女性がまさに世界に誇れる快挙をなしとげたといえよう。かつて18世紀にイギリスの歴史家ギボンが『ローマ帝国の衰亡史』を著したが,これに対抗したわけじゃあるまいがローマ史1200年の推移をコンスルや皇帝などのエピソードを中心に15巻にまとめあげたのは特筆にあたいする。まさに執念のなせるわざであるが,それというのも古代地中海世界への歴史にほれ込んだからである。こういうスケールの大きい知的好奇心をもった野心的な女性作家は,日本には二度と現れないだろう。経歴がそれをものがたっている。


履歴 

1937
0歳 7月7日、東京都に生まれる。

1953
16歳 ホメロスの『イーリアス』を読み、地中海世界に興味を持つ。


東京都立日比谷高校を卒業。

1960
23歳 六〇年安保の学生運動に参加、政治について考えるようなる。

1962
25歳 学習院大学文学部哲学科を卒業。

1963
26歳 10月、イタリアに遊学。ローマに住み、ヨーロッパ、北アフリカ、中近東を旅してまわる(〜1968年10月)。

1966
29歳 10月、当時「中央公論」編集者で、その後まもなく編集長に就任する粕谷一希氏に、「ルネサンスの女たち」という題で作品を書くことを勧められる。

1968
31歳 『ルネサンスの女たち』を「中央公論」4,6,9月号に連載、作家デビュー。

1970
33歳 3月、『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』刊行。
同作品により1970年度毎日出版文化賞を受賞。
再びイタリアへ渡り、フィレンツェに住む。
シチリアの貴族の出身で医師のジュセッペ・シモーネ氏と結婚したのも、この年と思われる。

1974
37歳 息子のアントニオが生まれる。
『イタリアだより』を「文藝春秋」5月号〜1975年5月号に連載。

1975
38歳 3月、『愛の年代記』刊行。
6月、『イタリアだより』刊行。

1980
43歳 1月25日、最も信頼していた編集者の塙嘉彦氏が他界。享年45歳。
7月、『コンスタンティノープルの渡し守』刊行。
10月、『海の都の物語』刊行。

1983
46歳 3月、『サロメの乳母の話』(『歴史の散歩』改題)刊行。
『男たちへ』を「花椿」6月号〜1988年1月号に連載。
9月、『コンスタンティノープルの陥落』刊行。
『海の都の物語』その他の著作に対して、第30回菊池寛賞を受賞。

1985
48歳 『男の肖像』を「文藝春秋」3月号〜1986年2月号に連載。
3月、『サイレント・マイノリティ』刊行。
10月、『ロードス島攻防記』刊行。

11987
50歳 4月〜9月、『聖マルコ殺人事件』を「週刊朝日」に連載。
5月、『レパントの海戦』刊行。
9月、『わが友マキアヴェッリ』刊行。

1988
51歳 『わが友マキアヴェッリ』により、1987年度女流文学賞を受賞。
7月、『マキアヴェッリ語録』刊行。
11月、『聖マルコ殺人事件』刊行。

1989
52歳 1月、『男たちへ』刊行。
2月〜8月、『メディチ家殺人事件』を「週刊朝日」に連載。
5月〜1990年8月、『昔も今も』を日本経済新聞に連載。

1990
53歳 1月、『メディチ家殺人事件』刊行。
『人びとのかたち』を「フォーサイト」3月号〜1994年4月号に連載。
『法王庁殺人事件』を「月刊Asahi」10月号〜1991年9月号に連載。

1991
54歳 4月、『再び男たちへ』(『昔も今も』改題)刊行。

1992
55歳 1月、『法王庁殺人事件』刊行。
7月、『ローマ人の物語I―ローマは一日にして成らず』刊行。
2006
69歳 12月 『ローマ人の物語』全15巻完結

●朝日新聞

 古代ローマの、1200年をこえる興亡の歴史をたどった、『ローマ人の物語』(全15巻、新潮社)が完結した。イタリアから一時帰国している著者の塩野七生さん(69)に、古代ローマの魅力について聞いた。

    *    *    *
 「古代ローマの及んだ地域には、道路、水道、闘技場などの遺跡が残り、日本人も目にしている。これらを、美術や文化として説明する本は多い。でも私は、ひとつの文明として、何のためにつくられ、人々がどう考えていたかを伝えたかった」

 古代ローマは、紀元前8世紀に都市国家として誕生した。元老院主導の共和政で、地中海をかかえこむほど拡大すると、矛盾も大きくなった。政治変革をめざし、殺されたカエサル(シーザー)の遺志を生かし、後継者アウグストゥスは、帝国としての政治システムを整えた。反動ととられることの多い帝政を、塩野さんは肯定的にとらえた。

 「『パクス・ロマーナ(ローマによる平和)』の時期は、広大な、ヨーロッパ、中近東、北アフリカの地域に、200年もの間、戦争が起こらなかった。ローマに負けても、多くは自治が認められた。中央集権と地方自治の微妙な組み合わせです。大英帝国など植民地を搾取した近代の帝国とはまったく異なる。皇帝の出身地も、ローマ本国だけでなく、属州のガリアやアラブ人まで広がった」

 隆盛の鍵は敗者への「寛容」にあった、という。多神教社会であったことが大きい。「彼らは自分たちは正しいにしても、他の人たちが間違っているわけではないと考えていた。戦いに勝っても、勝者の権利をふりかざさなかったんですから。でも日本の多神教とは違いますけれど」

 共和政、帝政の違いをこえて、宗教のかわりに、法が意味をもった。「さまざまな宗教、肌の色などが違う人々が一緒に暮らす共同体にはルールが必要で、それが法だった」

 法律や税制、安全保障(軍備)、公共施設、公共観念。代々の皇帝たちは、どのような点に苦心したか。歴史書や公文書、彫像、コイン、碑文などから、作家の想像力で、大胆すぎるほど断定的に往時を分析した。

 「すべての道はローマに通ず」という言葉があるように、帝国の隅々にまで道路が整備された。「万里の長城は防衛とともに、交通を遮断する。ローマ道路は、開かれた交通を大事にしている」

 3世紀前後から、多民族の侵入、内部対立などで混乱が続き、一神教のキリスト教が政治に浸透するにつれ、ローマらしさは薄れていった。

 「キリスト教公認までの約300年間、ローマ人はキリスト教を必要とはしていなかった。しかし、人間は、不安になると強いことをいう者にひかれる。キリスト教には、その強さがあった」

 「最後のローマ人」として他民族出身の軍総司令官を描き、イスラム教の出現を望むあたりで、最終巻は結ばれている。

 「西ローマ帝国滅亡のあと、キリスト教が支配する中世が千年近く続いたあとにルネサンスがおきた。いまヨーロッパは、自信をなくして不安になっているところが、ローマ帝国の最後あたりと似ている。新たな中世が始まる予感もします」

 ひとつの文明の運命をどう読むか。読者の自由にまかせたい、という。


●読売新聞

 1992年以来、1年1冊ずつ15巻。塩野七生(しおのななみ)さん(69)の歴史巨編『ローマ人の物語』(新潮社)が、ついに完結した。単行本・文庫の累計部数は774万部。非キリスト教徒によるローマ帝国の歴史は、「9・11」以降の世界へ多くの示唆を含む。この時代に思い出すべき寛容の精神とは――。イタリアから一時帰国中の作者に聞いた。(尾崎真理子)

 「なぜ、ローマ人だけが」

 初めにこの問いがあったという。ギリシャ人の知力に学び、紀元前2世紀に地中海の覇者となり、長いパクス・ロマーナを実現し得たのは、ローマ人の何が秀でていたからなのか。

 「人間の生活にとって最も重要なことは安全保障(セクリタス)。戦乱の苦しみほど不幸なものはないという真実を、彼らはよく知っていました」

 その統治は、独自の寛容さによって貫かれていた。征服した国や地域の神々をすべて認め、奴隷化してもローマ市民権への道を開き、有力者は元老院に招いた。「ローマ化こそ、最強の安全保障であるという信念がありました。軍事力で制圧すると、いずれ反乱が起こり、税負担が増える。この悪循環を見通していたようにね。ただしローマ人は、勝って、譲った。勝者の寛容なんです」

 ギボンをはじめ、西欧人による記述とは異なる印象の「帝国」が浮かび上がる。「少なくともイギリスの帝国主義とはまるで違う。要するに私は、キリスト教世界が書かなかったローマ史を、初めて書いたのだろうと思います」。淡々と語るが、すでに韓国、台湾でも翻訳されベストセラーに。英訳も進行する。

 著者の「ローマ的なるもの」の追求は、人間ならユリウス・カエサル(紀元前100〜同44年)に極まっているだろう。「ローマの歴史がカエサルを生み、彼がその後のローマ世界を決めた。熱中して書いているうち、ある時ふっと、彼の腕の感触を間近に感じたほど」

 カエサルの残した「ガリア戦記」のラテン語の散文は「簡潔、明晰(めいせき)、この上なくエレガントで」、シェークスピアやブレヒトらに感銘を与えた。現在の暦に近いユリウス暦の採用、ローマ最初の国立図書館や造本の発案、さらに元老院の討議の速報を壁新聞にするなど、現代のメディアの源流もことごとく彼にある。

 しかも同時代にあの雄弁家キケロがいた。当時の書簡集からこまやかに読み取られている古代人の喜怒哀楽。幸福感、挫折感。彼らだけではない。カルタゴのハンニバルからクレオパトラ、初代皇帝アウグストゥス……皆、同時代人のように風貌(ふうぼう)まで彷彿(ほうふつ)としてくる。

 「塩野七生は歴史を面白くし過ぎると、研究者から非難されます。でも“私が”歴史を面白いと思って書いた。ただただ、物語って行っただけですよ」

 第15巻「ローマ世界の終焉(しゅうえん)」は、6世紀半ばに「地中海がローマの内海でなくなった」のを見届けて終わる。しかし私たちは、もう一度ローマ人が歴史の表舞台に立つのを、この著者の『ルネサンス著作集』(全7巻)ですでに知っている。

 イタリアで執筆生活を始めて40年余。塩野作品は、これで紀元前8世紀のローマ建国から近代に至るまで、イタリアと地中海の歴史に一本の流れを通したことになる。その作者が、「今、世界中が中世に向かいつつあるのでは」と小声で言う。

 「古代においてはローマ帝国が、どうやって諸民族と共生できるかを実現し、それが機能しなくなって中世が訪れた」

 ルネサンス以降、フランス革命、啓蒙(けいもう)主義、2度の世界大戦の教訓から生まれたEU……。500年をかけて西欧諸国は、ようやく政教分離の寛容さを共有するに至ったものの、「その理念が通用しなくなりつつある。私は民主主義は最後の宗教と思っていますが、軍事に訴えても影響力は低下しつつある」と憂慮する。

 紀元前1世紀、「都市生活が快適すぎて」、少子化が進んだというあたりも興味深い。諸問題解決の糸口を求めて、愛読する政財界人が多いことでも知られる。「でも、私の提言など、どこにも書いていません。何を受け取るかは、読む方(かた)次第」

 1年1巻のペースを守るため、この15年、夏休みを取っていない。古文書から現代の研究成果まで丹念に目を通し、シリア、北アフリカからスコットランド……旧領土の隅々まで旅した。約1万枚の手書き原稿を書き終えるために潰(つぶ)した万年筆は、5本。

 「すっかり視力を悪くしちゃって」

 余裕の微笑が、達成感を物語った。

「高校で世界史を学ばないなんて。歴史の骨格を学ばないと、私の本も読めません」(東京・新宿区の新潮社で)


(2006年12月15日 読売新聞)



●韓国 中央日報

「ようやくローマが分かってきた」…『ローマ人の物語』書き終えた塩野七生氏

「自分の羽根を一本一本抜きながら美しい織物を織り上げていった『夕鶴』のつうのよう。丸裸になった気分がします。しばらく休んで羽根を生やさなければオーブンに入れられそう」−−。

「シリーズ物」ローマ人の物語で有名な日本の作家、塩野七生氏(69)が15年の幕を閉じるにあたり、14日に語った言葉だ。

自分のエネルギーを全てこの本に降り注いだ。彼女は子供を生むように15年間、ローマ帝国の興亡史を毎年1冊ずつ書いた。1992年1巻目「ローマは1日にして成らず」で始まり、15日に日本で出版される第15巻『ローマ世界の終焉』でピリオドを打つ。

このシリーズは14巻まで日本で540万部が売れた。塩野は15冊を書く間、イタリアにとどまり、1年の半分は資料収集および精読、残り半分は執筆に明け暮れた。

◆「ローマ人を知りたくて書いた」=塩野氏は第15巻のあとがきで「ローマ人の物語シリーズは自らローマ人を知りたいと思って書いた」とし「執筆を終えた今ようやくわかったといえる」と明らかにした。またどうしてローマの歴史を、それも15冊も書いたのかに対しても打ち明けた。「素朴な疑問から始まった。これまでローマ史とといえば一般な常識はローマ帝国の「衰退」にかかわるものだった。しかし衰退したらその前には栄えたということなのに、どうしてその繁栄期には関心を持たなかったのかということ。だれも私の疑問に答えてくれなかったので自分で答えを探そうとした」。

ローマ史のバイブルとして通じるイギリス人の歴史家エドワード・ギボン(1737〜94)の『ローマ帝国衰亡史』(6巻)がローマ全盛期(96〜180)から東ローマ帝国滅亡に至る時期のみを扱ったのと比べ『ローマ人の物語』はローマ建国から滅亡までをあまねく扱っている。

塩野氏は「一国の歴史は一人の生涯と同じだ。徹底的に知りたいと思えばその人の生誕から始まって死ぬまでを通さなければならないように(歴史も)同じだ」とし「15年の歳月と15巻のボリュームが必要だった」と強調した。

ローマ帝国が続いた理由について彼女は「ローマ人は人間という複雑な存在をしっかと見据えたうえで制度を作り出し、メンテナンスと見直しを怠りませんでした」と分析した。

ローマ史を論ずるのに「日本人塩野」は限界があるという一部の指摘に対して彼女は14日付産経新聞とのインタビューで「ヨーロッパの歴史家がローマ史を書けばどうしても共和制を高く、帝政を低く評価してしまう。まったく別の文明圏に生まれ育った私は、クールに描くことができたと思う」と自信をのぞかせた。

最終巻である第15巻で彼女はローマ帝国の滅亡とその後に現れた現象を列挙した。特にローマ帝国の滅亡を扱った既存の歴史研究書と差別化させるため「なぜ」よりは「どうして滅亡したか」に重点を置いた。

塩野氏は「中世ルネサンス時代のべネチア共和国、古代ローマ帝国など『盛者必衰』が歴史の理なら、後世の我々も襟を正して純粋に送ることが歴史に対する礼儀だと思う」とした。

◆塩野七生=1937年東京で生まれ、63年、学習院大学を卒業した。高校時代イタリアに興味をもち始め、東京大学入学試験に落ちた後、学習院大学を選択したのもその所にギリシア、ローマ時代を教える教授がいたからだった。西洋哲学を専攻し、学生運動にも加わったが、マキャベリを知るようになって懐疑を感じ、やめて卒業後、イタリアに渡った。イタリアで30年以上、ローマ史を研究した後、マキャベリの『君主論』のモデルとして知られるチェーザレ・ボルジアの一代記を描いた『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』で70年、毎日出版文学賞を受賞した。

東京=金玄基(キム・ヒョンギ)特派員

2006.12.15 09:26:32


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