女の世紀を旅する
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2005年11月01日(火) |
日本の異才,寺山修司の世界 |
寺山修司の世界
寺山修司は、生前、職業は?と聞かれて、職業は寺山修司と答えている。 彼は好奇心のおもむくままありとあらゆることに手を染めた。
詩人、映画監督、シナリオライター、競馬評論家、ルポライターなどなど。 その中でも彼は演劇に特に力を入れた。
寺山修司は常に、世界の涯を目指したが、演劇こそが彼のもっともふさわしい表現手段だった。
寺山修司は1968年、劇団天井桟敷を旗揚げし、1983年になくなるまで、常に舞台を作り続けた。
そして彼の舞台は日本よりもむしろ世界に出ていくことが多くなった。 「奴婢訓」が彼の代表作であるが、同時に「奴婢訓」は「ヴィレッジボイス」における80年最優秀外国演劇賞を受賞している。
寺山修司は最初、歌人として出発し、初期の彼の演劇はまさに言葉の演劇だった。しかし、海外での公演が多くなるにつれて、言葉は剥ぎ取られ、肉体とイメージで彼の舞台は満たされていく。
このころは、演劇はどんどん舞踏化していき、舞踏はどんどん演劇化していった時代でもあるのだが、まさに寺山の演劇もそうだったと言える。 寺山のイメージは常に世界の果てを目指したけれど、そういう意味では寺山にとって「奴婢訓」はイメージの果てだったように思える。
《 寺山修司の詩作から 》
ひとの一生かくれんぼ
あたしはいつも鬼ばかり
赤い夕日の裏町で
もういいかい まあだだよ
百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる
かもめは飛びながら歌をおぼえ
人生は遊びながら年老いてゆく
人はだれでも
遊びという名の劇場をもつことができる
どんな鳥だって
想像力より高く飛ぶことは
できないだろう
わかれは必然的だが
出会いは偶然である
野に咲く花の名前は知らない
だけど野に咲く花が好き
人生はたかだか
レースの競馬だ!
●「思い出多き北上の舞台」 昭和精吾
岩手には昭和46年の今頃の季節、青森県出身の歌人で、天井桟敷主宰の寺山修司と一緒に足を運んだ。当時私は劇団「青俳」(故/木村功、岡田英次、蜷川幸雄らが在団)を経て東映に移り、演劇実験室「天井桟敷」にいた。寺山の第一回監督作品『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)の上映、寺山の講演、われわれ劇団員3人の詩の朗読をワンパックにした東北巡演だった。
最初の盛岡公演は大盛況だった。問題は、その後の北上市にあった。
当時あまり面白くなかった寺山の講演から幕が上がり、一通り話し終えて寺山は言った。 「何か今までの話の中で質問がありますか」。場内はシーンと静まり返り、沈黙が続いた。 「ここの観客は街が静かなせいか随分、おとなしいですね」。寺山は皮肉たっぷりに言った。 「人間がおとなしいのと静かなのではどうちがいますか?」。突然、甲高い女性の声で質問があった。
「おとなしくしているから静かなのか、静かにしているからおとなしいのか、どっちにしても同じような事が言えますが、人間一番おとなしい時は死んだ時です。次が眠っている時です。死んでも眠ってもいない人間がおとなしいのは主義主張を持たない、僕から言わせればほとんど無知に近い人間です。そういう意味で言えば目の前にいるあなたがたは、ほとんど無知に近い人間です」。場内が騒然となった。
そのしっぺ返しが詩の朗読の時にくる。最初は佐々木英明(映画『書を捨てよ・・』の主演男優)のぼそぼそ語りかけるような青森県の方言詩から始まったが、途中でマイクトラブルが起き、声が届かなくなってしまったのである。 「聞こえない!」「やめろ!」「帰れ!」。先程の静けさとは打って変わって猛烈なヤジが飛んできた。「聞こえなかったら前へ来いよ!」佐々木も負けてはいなかった。 「昭和、発煙筒を投げろ!」
舞台のソデで次の出番を待っていた私に、寺山が興奮しながら近寄ってきて叫んだ。当時、本番中はいつも発煙筒をポケットに忍ばせて観客の挑発に備えていた。それほど挑戦的な舞台を「天井桟敷」は作っていたのである。 「わかりました」真っ白な煙の帯が何本も客席めがけて飛んでいった。「昭和! もっと投げろ! 北上をつぶせ!」
自分も興奮していたが、これから一体どうなるのだろう? 心の隅に確かな冷静さはあった。あの時一番発煙筒を客席に投げたのが劇団の後輩で、今は盛岡の劇団「赤い風」にいるおきあんごだったように思う。今年夏、三沢市に設立された寺山修司記念館のオープニングでおきと再会してこの話をしたら、「昭和さん、おれ一本も投げてないですよ。同じ県民じゃないですか」「うそつくな、おきが一番多く投げたじゃないか」
26年前の、なんとも懐かしい話だ。二人とも血気盛んなころで、寺山さんも元気だった。その時の寺山が構成した生原稿が今、手元にある。この話の続きは16日の盛岡公演本番で、あの時の生原稿をお見せしながら、ゆっくり語ろうかと思っている。
今日も稽古場のある東京・有明の空は赤とんぼの乱舞だ。あの遠い日、北上市の劇場で我々に一生懸命ヤジを飛ばしてくれた方々は今ごろどこで何をしているだろうか。夕焼け雲の下、ふとよぎる郷愁に似たこの思いは、やはり人恋しい秋のせいかもしれない。
お元気ですか。今もお変わりございませんか。 あの日あの時と時代も大きく変わりましたね。 私、昭和も今は発煙筒など忍ばせて舞台に立ってはおりません。
「 ふるさとの 訛りなくせし友といて モカ珈琲はかくまでにがし 」 寺山修司
●「寺山修司さんへ ─1983年『弔辞』」 山田太一
寺山さん
あなたは「死ぬのはいつも他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉を口にしていたことがありましたが、そして、あなたの死は、私にとって、もとより他人の死であるしかないわけですが、思いがけないほどの喪失感で──あなたと一緒に、自分の中の一部が欠け落ちてしまったような淋しさの中にいます。
あなたとは大学の同級生でした。 一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。 手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。さんざんしゃべって、別れて自分のアパートへ帰ると、また話したくなり、電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるというようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。 去年の暮からだったでしょうか。あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。 そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。 同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、あなたは、実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。私は胸をつかれて、その姿を見ていました。ようやく改札口を出て、はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。あなたは、昔からよくそういっていたので、またはじまったと、笑って応じましたが、その時は冗談にならないものが残ってしまいました。 その晩は、どの時をとっても、哀惜とでもいうような感情が底流に流れているような夜でした。
あなたは、私の本棚を魅せろ、といい、どの棚もどの棚も丁寧にたどって、昔の本を見つけると「なつかしいねえ」と声を高め、ミシェル・フーコーを読んだか? ジャック・ラカンはどうだと、本棚と本棚の間の狭い空間が学生時代に逆行してしまったような時間をすごしました。
それから続けて二度逢い、最後は深夜、あなたの家の前で、タクシーに乗る私と妻を送ってくれたのでした。それから一週間もたたないうちに、あなたは倒れてしまいました。終りの四カ月に、再び濃密な思い出を残して──。
十八歳の時の「チェホフ祭」からはじまり、あなたの作品には、幾度もおどろかされ、感動しましたが、私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました。それらは、かけがえのない魅力を持っていて、いまはただ、とめどようもなく燃えつきてしまった輝きを惜しんで、うずくまるばかりです。本当に、あの世というものがあるなら、再会して、狭い片隅で、時間を気にしないで、本の話を、心ゆくまでしたいものだと──切望しています。せめて、そんな時の来るのを、あてにして。 じゃ、また──といわせて下さい。
●「寺山修司・五月の死」谷川俊太郎
五月四日午前、主治医から夕方までもつかどうか分からないと告げられて、九條映子さんと私は病院前の喫茶店で二十分ほどぼんやりとしていた。そのとき不意に寺山の初めての本の題名が心に浮かんできた。<彼の最初の歌集の題名覚えてる?>と問うと、九條さんは<『空には本』>と答えた。<いや、その前にもうひとつあったじゃない。歌集ではなかったかもしれないけれど>
一九五七年、中井英夫の好意で作品者から詩、短歌、俳句、小品、エッセイなどをまとめて寺山の最初の単行本が出版された。そのときも彼はネフローゼで絶対安静の身だった。題名は『われに五月を』。 四月二十二日の入院以来、ありとあらゆる医療器械にとりまかれて昏睡状態をつづける寺山を見守ってきたのだから、とっくに覚悟はできていたはずだが、『われに五月を』という題名を思い出した瞬間、私の心に哀しみと解放感をともなった不思議な感情が生まれた。 肝硬変をかかえていたとはいえ、無理をしなければまだまだ生きられたし、その残された時間に寺山がどのように変貌するか、じっくりつきあいたいと思っていたから、今回の急変に私はある口惜しさを押さえきれなかったのだが、そのとき初めて私は寺山の死を受け容れる気持ちになったのかもしれない。
何十冊にも及ぶ著作のその出発点から、彼は死のときを自分のうちに予感し、呼びこんでいたのか。だが、当時二十歳という若さで死に瀕していた寺山が、死を覚悟していたとは思わない。おそらく健康な人間には思いもつかない烈しさで、彼は生きたかっただろうと思う。「五月の詩」と題された序詞には、<二十歳 僕は五月に誕生した>という行が、二度くり返されている。 集中に収められた作品は、その後の彼の仕事にくらべればほとんどとるに足らぬものかもしれないが、そこに死の影はおろか、病の影すらおちていないのは、おどろくべきことだ。当時の彼にとってもっともさし迫った現実であった病と死に、寺山は全く背を向けている。 それらの作は(発病以前のものも含めて)私的な現実を徹底して否認するところで書かれているように思える<・何の作意ももたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位 に告白癖を戒めさせた。>と、寺山は一九八五年に出た『空には本』のノオトに書いているが、<はげしく侮蔑>、<はげしいさげすみ>と重ねられる表現には、方法論の表明として読むだけでは片づかない深い感情がひそんでいる。
詩歌においても、劇や映像作品においても、ときには単純な履歴においてすら彼は自分というものをかうしてきた。それは一貫した方法論でもあったのだが、そうした態度をとったその根本に、いわば<私の死>とも呼ぶべき彼の年少のころの体験があったのではないだろうか。
九歳のときに父を失い、母が働きに出たため一人暮らしをしたこと、高校文芸部の仲間ふたりが自殺していること、そして十八歳から二十二歳までネフローゼで入院生活をし、何度も死線をさまよったこと、年譜を見るだけでも彼が日常の私的な現実に背を向けたくなる材料には事欠かない。
だがそこから寺山が虚構へと・・したり逃避したりしたとは私は考えたくない。過酷な指摘現実をひっくり返すようなより広い現実、寺山自身の言葉をかりれば、<私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力>、<たったいま見たいもの、世界。世界全部。>(『血と麦』ノオト)それを彼はもとめた。 それは死を否認する生の力と言っていいだろう、彼にとってはそれは同時に言語の力でもあったのだ。現実の死に先立って原義によって自分自身を殺すことで、彼は誕生し、生きた。そこからしか彼は生きる力を得ることができなかった。『われに五月を』と記したとき、その<五月>は彼の死のときであったけれど、それは同時に彼の生そのものでもあった。
五月四日午後零時五分、心電図の針が上下動をやめ、グラフに画かれていた弱い波動が、私の目の前で一本の平坦な直線に変った。人工呼吸器が装着されていたので、まだ生きているようだったけれど、そのとき初めて寺山は生と死とを連続させたのだ。死へと向かって成熟してゆくことを終始拒否しつづけてきた彼にとって、その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、<私>との和解の瞬間、むしろ誕生の瞬間であるかのように思われた。
昭和58年(1983)47歳 絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を書く。5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、死去。享年47歳
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