女の世紀を旅する
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2005年10月04日(火) |
世界の宗教 仏教:シャカの生涯とその思想 |
《 世界の宗教 仏教 : シャカの生涯とその思想 》
かつて,ドイツの哲学者ニーチェは,世界でもっとも精神衛生によい宗教は仏教であると語ったが,その仏教の教えの本質を知らない人があまりにも多い。仏教とはどういう宗教なの?と質問されて,答えに窮する人が多いのも,実のところ日本の学校では一般に宗教の授業がおろそかにされ,ほとんど宗教に関して,無知と偏見に支配されているといっても過言ではない。
キリスト教は神によってもたらされた原罪をいかにして贖(あがな)うかがキーワードとしてあるが,仏教の教えはもっとシンプルで,いかにすれは人は苦悩から解放されるのか,その救いの方法を説いている点に特色がある。
●仏教の教えの根幹をなすのが,「中道」と「慈悲」である。
★中道→快と苦のどちらにも陥らない中正なみち。シャカ自身の体験から生まれ,「初転法輪」で表明された基本的な立場。官能のおもむくままに快楽にふける快楽主義と,激しい苦行に没頭する苦行主義の両極端を捨てて,中正な知恵と努力を重視。八正道(はっしょうどう)の実践が求められる。
★慈悲→仏教における普遍的愛のこと。慈とは,いつくしみであり,他者に楽しみを与えること。悲とは,あわれみであり,他者の苦しみを取り除くこと。人間に限らず,動物や草木にいたるまで,生きとし生けるものすべての幸福と平和を願う心。我執やものにとらわれる心を捨て,すすんですべての生命を愛することを仏陀は力説した。
――何びとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。あたかも,母がおのが独り子を身命を賭(と)して護(まも)るように,そのように一切の生きとし生ける者に対しても,無量のいつくしみの心を起こすべし。『スッタニパータ』(仏陀の言葉を収録した最古の仏教聖典)
★輪廻→輪廻転生(りんねてんしょう)ともいう。人間の行為(カルマ〉によって幸・不幸や運命が決まるという教えが「因果応報」。輪廻とは,霊魂がその生活の形を変えつつ,どこまでも持続することで,限りなく生まれかわり,死にかわりすること。因果応報によって,ある生活における行為が次の生活の形・運命を決める。人間は因果のくさりのなかで,前世(ぜんせ)・現世(げんせ)・来世(らいせ)の三世にわたって生きる。前世の行為の結果として現世があり,また現世の行為の在り方によって来世の生活が決まるという思想。
それでは,シャカの生涯とその思想について,以下にまとめてみたい。
そもそも仏教は,古代インドのバラモン教からおこったウパニシャッド宇宙哲学から派生して形成された宗教であるため,きわめて哲学的な思想につらねかれている点に特色がある。
中道の思想などは,古代ギリシアの哲学者アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で強調した「中庸」の徳に似ており,仏教の合理的な哲理は,絶対的な神を崇拝するキリスト教・イスラム教とは異なり,人間と宇宙と自然の真理を考察したギリシア哲学に近似しているといえよう。
●シャカ(ブッダ)の教えの根本は苦からの解脱(げだつ)
舎衛城(しゃえいじょう)というところに,ゴータミーという婦人が住んでいました。彼女には一粒だねの男の子がおり,その子の成長をただ一つの生きがいとして毎日を暮らしていました。運命は皮肉なもので,その子はかわい盛りに,たった一夜の病気で死んでしまいました。ゴータミーの嘆きは言うまでもありません。彼女は死んだ子の身体を抱きかかえて,狂ったように走り回り,「この子が生き返らなければ私も死ぬ」と,食べものもとらないで嘆き続けました。
同情をした近所の人が, 「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられるブッダが,あるいはあなたの嘆きを救ってくださるかも知れない。行って相談してみなさい」 とすすめました。彼女は,溺れる者が藁(わら)でもつかむ思いで,ブッダを訪ねました。
「どうかこの子を生きかえらしてください。わたしはどんなこともします 」 「婦人よ。その子を生き返らせたいと思うなら,町に行ってだれも死人を出したことのない家から,ケシの実をもらい,それを飲ませなさい」 とブッダと答えたのでした。喜んだゴータミーは,さっそく町に出て,一軒一軒,死人を出したことのない家をたずね歩きました。何十軒探しても,何百軒探しても,そんな家は見つかりませんでした。なかには,あわれなゴータミーに, 「そんな誰も死なないなんて! ご先祖から今日までなくなった者は数えきれない」 と非難する者もいました。時がたち,しだいに心落ち着いてきたゴータミーは,死は誰にも避けられないことを,悟ってきました。再びブッダを訪ねた彼女は,そのことを告げ教えを請いました。ブッダは, 「婦人よ。死はあなたの子だけにあるのではない。生きとし生けるもののすべての定めである。子孫をほこり,財産を誇って,心を世のさまざまなわずらいにおいている人を,死はたちまちにして奪い去るであろう。それはちょうど村々を襲った洪水のように」 とよくわかるように諭(さと)しました。ゴータミーは心静まり,ブッダの言葉がよくわかって安らかな信仰生活にはいっていきました。
この物語は『パーリ経典』にあるものですが,この物語りのなかに注目すべき点が三つあると思うのです。
第一は,ブッダが少しも奇跡を行なっていないことです。宗教には奇跡が必ずともないます。「エイッ」と気合を入れて,死人をよみがえらせるのが,普通ですね。
第二は,ブッダが今,精神医学界で注目されているカウンセリングの方法をとっていることです。ゴータミーが最初にブッダのところへ相談に行った時, ブッダは直ちに「人間の死はまぬがれ得ないこと」を告げていません。彼女自身が自分でそのことを自覚していくようにしむけているのです。この方法はカウンセリングのなかでも,特に「無指示的方法」といわれるもので,ブッダ自身がきわめて科学的方法をとっていることが注目されると思われるのです。
第三に,彼女の悩みを超越者とか絶対者への信仰によって解決しようとしていません。ブッダは人生の哲理を説くことによって解決しようとしていることに注目したいのです。「信仰」による救済ではなく,「智慧」による救済の道をとっていることを記憶にとどめておきたいのです。
●シャカの生涯
仏教は,ブッダの説いた思想です。ブッダ(仏陀)とは「悟った人」という意味の尊称で,大乗仏教では「真理」そのものという意味に使う場合もあります。シャカ族の聖者という意味で,釈迦(しゃか),釈迦牟尼(しゃかむに),釈尊(しゃくそん)とも呼ばれますが,日本では一般にシャカ(釈迦)の呼称が使われています。しかし,本名はゴータマ・シッダルタといいます。
ゴータマが生まれたのは前6世紀で,そのころのインドは,ガンジス河の上流・下流域に多くの都市国家(マガダ国とコーサラ国が有力)があって,しかも,それらの国々の間に統一の気運が生まれて,戦乱と社会不安が発生しつつありました。
そんな社会的背景のなかで,ゴータマは裕福なシャカ族の,カピラ国(現ネパール)の王子として誕生しました。しかし,生後7日目に母(摩耶夫人.まやぶじん)と死別したこともあってか,少年時代の彼はいつも憂愁のかげがつきまとっていました。父王はそんなゴータマを少しでも慰めようとして,16歳の時に,いとこのヤショーダラ姫と結婚させ,やがて彼らの間には一人の息子ラーフラがもうけられました。しかし,家庭を築いても彼の心の中では,「人間はどうすれば苦悩を克服できるのか」という思いが,年々強くなっていった。
そのため29歳のとき,ゴータマは地位も財産も妻子も見捨てて,出家修行に出るのです。英語でこのゴータマの出家のことを The Great Renunciation(偉大な放棄)と呼んでいますが,まことに適訳だと思います。人間として望みうるあらゆる幸福を放棄して,彼はいったい何を獲得しようというのでしょうか。
彼は幸福の絶頂にあるとき,ふとこう思ったと語っています。 「自分はやがて年老いていく。年老いてゆく者でありながら,他人の年老いた姿をみて,いとい嫌っている。はたしてこれでいいのだろうか,こう考えたとき,私は青春の喜びが瞬時にして消え去った」
彼は同じ論法で病気のことや,死のことを考えた時,健康時の喜び,生存の楽しみが消え去り,人生そのものが苦であると考えたのです。
●35歳のとき,ブッダガヤで悟りを開く
出家から6年間,シャカは苦しい修行に挑み,死に直面したこともあった。出家したシャカは,まずマガダ国の首都ラージャグリハに向かい,そこでバラモンの僧たちとは異なる独自の修行をした。彼は最初,アーラーラ・カーラーマという修行者の弟子となり,瞑想を深め,煩悩(ぼんのう)を無くすという修行を教えられたが,わずかな期間で師匠の境地に到達してしまう。 師匠の教えに満足できなかったシャカは,別の修行者たちと出会い,山中にこもって厳しい苦行をはじめる。
当時のインドでは,肉体をいじめ,その苦痛に耐え続けることによって,超人的な力が得られると信じらられていた。そこで,絶食や呼吸を止めるという修行に取り組み,口にする食べ物は,わずかな果実や球根,コケぐらいだった。体が衰弱して直面したこともあった。こうした苦行を6年間も続けたため,シャカは骨と皮だけになってしまったが,結局,わかったことは,こうした苦行主義だけでは悟りを開けないということだった。
身も心もボロボロになったシャカは,山を下り,ナイランジャナー河で身を清める。そして,トボトボと歩いているとき,村長の娘スジャータと会い,彼女からミルク粥(がゆ)の施しを受けたといわれている。
体力を回復したシャカは,ブッダガヤという場所で,茂っていた大木の下に東を向いて座る。そして,「悟りを開くまでは,この場所から動かない」と決心して,瞑想に入った。そのとき,悪魔の大軍が襲いかかってきたと伝えられ,これはシャカの煩悩との闘いを表現しているという。日が暮れるまでには,これらの煩悩を克服。翌12月8日の明け方,ついに,宇宙,人生の真理を得て悟りを開いた。
仏教では,悟りを開いた者を「仏陀(ぶっだ)」と呼ぶが,このとき,出家修行者のゴータマ・シッダールタは,初めて「仏陀」となったのである。また悟りを開いたとき,彼が座っていた大木は,梵語(ぼんご.サンスクリット語のこと)で「迷いを断ち切って悟りを得た」という意味の「ボーディ」という言葉から,その後,「菩提樹(ぼだいじゅ)と呼ばれるようになった。この場所ブッダガヤはインド北部のガンジス河の南に位置している。
悟りを開いたシャカ,すなわちブッダは,自分の考え(法 ダルマ)を広めようと,布教活動に乗り出した。初めて説法したのは,ブッダガヤに近いサルナート(鹿野苑 ろくやおん)という場所。5人の比丘(ぴく.修行僧)に対して行なった(初転法輪)。これをきっかけに,しだいに弟子が増え,信者となった各地の王侯・商人たちから,寄付が集まるようになった。なかでも有名なのが,コーサラ国の富豪であるスダッタから贈られた「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」という広大な園林に造られた僧院。ここでシャカは大勢の弟子を連れてきては説法をしたという。
●シャカの入滅
シャカはあるとき、チュンダという名の在家者が供養した食事を摂りました。その食事の中にキノコがありました。そのキノコにあたって、これが原因で亡くなったのです。その場所はクシナガラでした。そのとき釈尊は80歳、日付は2月15日でした(インド暦第2の月の満月の日とする伝承もあります)。
シャカが亡くなったことを「入滅<にゅうめつ>」と呼びます。「入滅」の「滅」というは涅槃(煩悩を滅した状態)のことです。ですから入滅とは「涅槃に入った」という意味です。
シャカが入滅した時、シャカは弟子のアーナンダ(阿難<あなん>)を連れていました。そこでアーナンダはシャカに対して、シャカが亡くなったら我々はどうすればよいのかと尋ねたのです。
するとシャカはアーナンダに対して、自分自身を依り所として他人を依り所とせず、法(ダルマ.シャカの教え)を依り所として他の物を依り所としてはならない、と説いたのです。
この教えは、「依り所」を灯火・灯明に例えて、「自灯明<じとうみょう>・法灯明<ほうとうみょう>」とも表現されます。そして入滅の直前に、「全ては無常である。怠ることなく修行に精進しなくてはならない。」という言葉を残しました。これがシャカの最期の言葉でした。
シャカは頭を北に向け(これが北枕)、右半身を下にして横たわったまま永遠の眠りについたという。その場所の両側に2本のサーラ樹がありました。この2本のサーラ樹は、後に「沙羅双樹<さらそうじゅ>」と呼ばれるようになりました。
シャカは35歳の時に悟りを開いたはずなのに、なぜ亡くなったときのことを入滅(涅槃に入った)というのでしょうか?シャカは肉体を捨てることによって完全に涅槃(ねはん.一切の苦しみから解放され,澄み切った至福の境地)に入った、と考えられたからなのです。シャカは35歳の時に悟りを開いていますが、この時にはまだ生きてますから、肉体があります。ですから、肉体があるがゆえの苦しみはまだ残っているのです。そのため、肉体がなくなることで完全に苦から解放されて、悟りが完全なものになるのです。だから、完全に涅槃に入ったという意味でこれを「入滅」というのです。
また、輪廻(りんね)とは生と死を繰り返すことです。シャカは、生きていれば必ず苦が伴うと説きました。生まれ変わってくれば、再び苦が伴うことになります。しかし、シャカは涅槃に入っていますので、苦から完全に解放されています。したがって、シャカはもはや輪廻しません。
なお、シャカの入滅は、「仏陀の入滅」の意味から「仏滅<ぶつめつ>」ともいわれます。ただし、暦の六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)の仏滅は、仏教とは関係ありません。暦の仏滅は、もともとは「空亡」といってました。それが、江戸時代の中頃になると「物滅」に変わり、明治時代になると「仏滅」と書かれるようになったのです。
ところで、シャカが亡くなった時、ある修行者が「友よ、悲しむことはない。我々は解放されたのだ。今まで我々は、あれをしろこれをするなと言われて、悩まされてきた。これからは何でもやりたいことをしよう、やりたくないことをしないようにしよう。」と言ったのです。自分らの師匠が亡くなったというのに、「悲しむことはない、我々は解放された」と言って喜んでいたというのです。堕落した僧侶は、仏教が始まったばかりの頃からいたのです。
さて、シャカが亡くなると、シャカは火葬されたのです。火葬のことをジャーペーティと言います。この発音を漢字に当てはめたのが「荼毘<だび>」です(火葬にすること「荼毘に付す」というのはここから来ているのです)。 シャカの火葬が済みますと、シャカの遺骨が8箇所に分配されることになりました。シャカの遺骨は舎利<しゃり>(シャリーラ)と呼ばれます。舎利(シャリーラ)とは、サンスクリット語で骨の意味です。シャカの遺骨は、とくに仏陀の舎利という意味で「仏舎利(ぶっしゃり)」と呼ばれます。
そして、仏舎利を納めるものとして仏塔がたてられました。仏塔は、サンスクリット語ではストゥーパといいます。そして、ストゥーパの発音を漢字に当てたのが卒塔婆<そとば>です。
やがて1898年、イギリス人考古学者ウィリアム・ペッペは、インド北部のピプラッワーで発掘をしていた時に、遺骨を納めた壺を発見しました。その壺の表面の文字を解読したところ、それはこの壺に釈尊の遺骨が納められていることを伝えていました(その文字は別の意味に読むこともできるので、シャカの遺骨ではないという説もあります。しかし、シャカの遺骨であるとみるのが一般的です)。
シャカの80年の生涯の出来事の中でも、とくに重要な出来事とされたことが4つある。それは、(1)ルンピニー園における誕生、(2)ブッダガヤにおける悟り(成道)、(3)サルナートにおける初転法輪、(4)クシナガラにおける入滅、などでなる。
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