女の世紀を旅する
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2005年08月27日(土) |
日本史探訪: フロイスが見た信長 |
日本史探訪:フロイスが見た信長
16世紀の「大航海時代」に日本を訪れたイエズス会(ジェズイット教団.耶蘇会)の宣教師たちの日本見聞録には興味がそそられるものがある。特に注目したいのはフロイスの見聞録(「日本史」12巻)で,信長・秀吉の時代の日本の社会や世相や事件を知る第一級史料といえよう。
以下は,川崎桃太著『フロイスの見た戦国日本』(中公新社)のほんの一節。信長の考えや挙動や気性が生々しく伝わってくる貴重な史料があり,下記に記しておきたい。
※当時,信長は一向一揆に対する弾圧と殺戮,比叡山延暦寺の殲滅,石山本願寺の僧兵との長期にわたる戦いなど,反抗する仏教徒を目の敵(かたき)としていた。他方,伴天連の布教に対しては比較的寛大な態度で臨んだが,そのデウス(ヤハウェ,エホバ)の神を信じていたわけではない。ただ,異様な風貌をし,威厳にみちた南蛮人の出現は信長にとっても,ある種のカルチャーショックだったことは史料からも読み取れよう。
●フロイスの来日
ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは1563年(永禄6)西九州の横瀬浦に上陸した。31歳の彼は2年前に司祭の位を得たばっかりであった。イエズス会に入り,東洋での働きを志したのでインドに派遣され,インド西岸のゴアの学院で宣教師になるための準備期を過ごした。
フロイスが到着したころの日本には,わずか2名の司祭と数名の修道士がいるだけであったという。すでに,1549年にフランシスコ・ザビエルが来日し,初めてキリスト教を伝えたが,その布教は遅々として進まなかった。
●信長との最初の出会い
フロイスらの一行が都から堺に追放されたのが,仏僧たちの企てた不当な仕打ちと知った和田惟政(これまさ.信長の家臣.伴天連を支援)は,奉行の面目にかけても,伴天連を都へ連れ戻すべきだと考えた。信長の内諾を得ていたことがこの決定を至上命令に変えた。
だが,その信長は伴天連をまだ見ていない。帰還の礼を述べさせるためにも,フロイスを一刻も早く信長の許に伺候させねばならない。その機会は到着3日後に訪れた。
――司祭は贈物として,非常に大きいヨーロッパの鏡,美しい孔雀の尾,黒いビロードの帽子,およびベンガル産の藤杖を携えたが,それらはすべて日本にはない品だったからである。司祭には都の他のキリシタンたちが同伴した。
信長は館の奥で音楽を聴いていた。伴天連が来たと知らされても,面接には応じなかった。あることを考慮してそうしたのだ,と後で漏らしたが,そのあることとは,フロイスの言葉によると,
――予は伴天連を親しく引見しなかったのは,他のいかなる理由からでもなく,実は予は,この教えを説くために幾千里もの遠国からはるばる日本に来た異国人をどのようにして迎えてよいか判らなかったからであり,予が単独で伴天連と語ったならば,世人は,予自身もキリシタンになることを希望していると考えるかも知れぬと案じたからである。
接見の場所に一行が通されても,信長は一言もいわず,彼の前に立っている若い警護の武士たちの間からフロイスの動作を注意深く観察していた。 訪問者の前には食膳が出された。各種の料理が豊富に並べられている。指揮官の佐久間信盛と和田惟政が伴天連の接待にあたった。2人の司祭に,なにか食べるようしきりに促した。
――信長は贈物を見た後,そのうち3つを司祭に返し,ビロードの帽子だけを受理した。彼は贈物のなかで気に入ったものだけを受け取っており,他の人たちに対する場合でもつねにそうであった。
その日の謁見は,予期に反し,無言のうちに終わった。信長は相手の品定めを行なったのであろう。それが,信長流の交際術であった。フロイスは2人の指揮官に手厚い持てなしの礼を述べて,館を出た。
●二条城での会見の際,信長が一人の兵士を斬首
先の訪問で信長が伴天連に口を利かなかったことを,惟政はとても残念がった。キリシタンの悲しみが,情けを知るこの武将にはよく判るからである。そこで彼は次の機会を模索した。ほどなく今度は,信長の方から伴天連に会いたいといってきた。
2度目の会見は二条城の濠の上で行われた。折から,御殿の造営が急ピッチで進められていた。信長が献じる室町幕府新将軍・足利義昭(よしあき)の館である。「通常2万5千人が働き,少ない時でも1万5千人を数えた」というから,超大工事だったことが窺える。
信長はみずから陣頭に立って工事を指揮した。虎の皮を腰に巻き,藤杖を手に持った信長がいるだけで,張り詰めた空気が現場をうかがっていた。ある時,離れた現場の一角で,一人の兵士が通りがかりの婦人に軽く戯れた。信長の眼がそれを見逃すはずはなかった。突如,疾風のように駆け下ると,一刀のもとにその兵士の首を刎ねた。一瞬の出来事であった。
約束の日,信長は濠の橋の上でフロイスを待っていた。司祭が遠くから深く頭を下げているのを見つけると,近くに来るよう合図した。橋の板に2人は腰を下ろした。陽が強かったので帽子をかぶるようにいった。
――彼はただちに質問した。年齢は幾つか。ポルトガルとインドから日本に来てどれくらいなるか。どれだけの期間勉強をしたか。親族はポルトガルでふたたび汝と会いたく思っているかどうか。ヨーロッパやインドから毎年書簡を受け取るか。どれくらいの道のりがあるのか。……当国でデウスの教えが弘まらなかった時にはインドへ帰るかどうかと訊ねた。
この最後の問いかけにフロイスは,たとい一人の信者しかいなくても,終生日本に留まる決意である,と答えている。この時,通訳としてその場にいたのが,日本人のロレンソといわれている。
会見は2時間あまり続いた。信長は始終「ゆったりした気分」で話した。
建築を見に来た者たちが,二人の様子を遠巻きにして窺っていた。その中には多くの僧侶の姿も見受けられた。すると,「尋常ならぬ大声の持ち主であった」信長は僧侶たちを指さしながら,いった。
――あそこにいる欺瞞者どもは,汝ら伴天連たちのごとき者ではない。彼らは民衆を欺き己を偽り,虚言を好み,傲慢で僭越のほどはなはだしいものである。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し,殲滅しようと思っていたが,人民に動揺を与えぬため,……かれらを放任しているのである。
● 信長,キリシタン宗門に允許状を与える
フロイスはかねてより布教のための允許状を欲しがっていた。都のキリシタンたちは,貧しい中から三本の銀の延べ棒を用意して,和田惟政に仲介を依頼した。それは信長に渡し得るほどの額ではなかった。惟政は,自分の世話でさらに七本を加え,貧しい伴天連のため配慮を,と申し出た。
信長は笑いながら,
――予には金も銀も必要ではない。伴天連は異国人であり,もし予が,教会にいることを許可する允許状のために金銭の贈与を受けるならば,予の品位は失墜するであろう,と語った。
そしてそれを無償で与えるよう惟政に命じた。 惟政は一度伴天連から小さな目覚まし時計を見せてもらったことがあった。正確に時を告げる機械があることなど誰も知らなかった。信長もその精巧さに驚かれるだろう。伴天連と会わせるための格好の材料だ,惟政はそう思った。次の会見にその時計を持ち出すことをフロイスは快諾した。
館では二,三の来客と信長はくつろいでいた。フロイスの差し出した時計を見るなり,珍物を見る時の喜びの表情に変わった。すかさず,司祭は,殿に献上するため持ってきたのだといった。どうか,納めていただきたい,と重ねて言上した。
信長は悲しむようにフロイスに目を遣り,
――予は非常に喜んで受け取りたいが,受け取っても予の手もとでは動かし続けることはむつかしく,駄目になってしまうだろうから,頂戴しないのだ。
といった。
信長は伴天連を自室に案内した。自分の飲んだ同じ茶碗で茶を飲ませた。二度目の茶も飲むよう所望した。美濃の干柿が振舞われた。干柿の入った四角い箱を持ってこさせ,フロイスに渡した。
ここでもロレンソ修道士が司祭の側にいた。信長はインドとヨーロッパの話に強い関心を示した。 「インドの気候と食物は」,信長が訊ねた。「暑さに耐え兼ねて,人々は日中の大半を寝そべって過ごします」。フロイスはゴアの市場や海辺でよく見かけた,けだるい光景を思い出していた。「カレーと称する辛い食物を好みます」。この食物にはちょっぴり未練があった。
●獅子のように怖れられた信長
都では,伴天連を擁護する和田惟政と,宗門を憎む日乗上人との対立が日増しに激化し,信長の不在に乗じて,日乗は過激な行動に出る気配を見せていた。フロイスは窮状を訴えるため,岐阜城へ行くことを考えた。この旅にはいつものようにロレンソが同行し,信長の重臣柴田勝家と他の一人の武将に当てた惟政の書状が託されていた。
このたびの訪問ではフロイスは,城中での信長が覇王のように畏怖され,仕えられているのを見て驚愕した。家臣たちの振舞いにはそつがなく,一つの厳しい司令の下ですべてが無駄なく機能しているとの印象を受けた。張り詰めた空気が城内にはみなぎっていた。
――手でちょっと合図するだけでも,彼らはきわめて凶暴な獅子の前から逃れるように,重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人呼んだだけでも,外で百名がきわめて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は,それが徒歩によるものであれ,馬であれ,飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差し支えがありません。……公方様の最大の寵臣のような殿も,信長と語る際には,顔を地につけて行なう。
●信長の人物像
信長はどんな風貌の持ち主であったか。信長の似顔絵についていえば,狩野元秀の筆になる肖像画が,現在伝わっているもののなかでは一番有名である。本能寺の変後一周忌に寄進されたといれれているから,実物をよく捉えているのだろう。信長と付き合いの長かったフロイスは誰よりもよくこの人物を知っており,その人物描写も貴重な史料といえる。
――信長は尾張の国の三分の二の主君なる殿(織田信秀)の第二子であった。彼は天下を統治し始めた時には37歳ぐらいであったろう。彼は中くらい背丈で,華奢な体躯であり,髯(ひげ)は少なくはなはだ声は快調で,極度に戦(いくさ)を好み,軍事的修練にいそしみ,名誉心に富み,正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。
彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲ではなく,はなはだ決断を秘め,戦闘にきわめて老練で,非常に性急であり,激昂はするが,平素はそうでもなかった。彼はわずかしか,またほとんどまったく家臣の忠言には従わず,一同からきわめて畏敬されていた。
酒を飲まず,食を節し,人の取り扱いにはきわめて率直で,自らの見解に尊大であった。彼は,日本のすべての王侯を軽蔑し,下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして,人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広闊,忍耐強かった。
彼は善き理性と明晰な判断力を有し,神および仏の一切の礼拝,尊崇,ならびにあるゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが,顕位に就いて後は 尊大にすべての偶像を見下げ,若干の点,禅宗の見解に従い,霊魂の不滅,来世の賞罰などはないと見なした。
彼は自邸においてきわめて清潔であり,自己のあるゆることをすこぶる丹念に仕上げ,対談の際,遷延することや,だらだらした前置きを嫌い,ごく卑賎の家来とも親しく話しをした。
彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器,良馬,刀剣,鷹狩りであり,目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ。
彼は少しく憂鬱な面影を有し,困難な企てに着手するにあたっては,はなはだ大胆不敵で,万事において人々は彼の言葉に服従した。
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