女の世紀を旅する
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| 2004年08月11日(水) |
サッカーアジア杯,中国側の反日の背景 |
《サッカーアジア杯,中国側の反日の背景》 2004/08/11
8月10日に中国(北京・西安・上海)から帰国。歴史遺跡・博物館めぐりが中心。とにかくその巨大な人的パワーにはひたすら圧倒されっぱなしであった。しかし,私の今回の中国旅行で関心をひいたのは,重慶・済南でのサッカーアジア杯での反日フィーバーの実相であり,特に8月7日での北京工人競技場での日本と中国の決勝戦にみられる当地のフィーバーぶりの凄さである。愛国教育が背景にある。なぜ今になって,反日の機運がスポーツの分野で押し進められたのか,大いに興味がそそられた。 その裏側の中国側の政治的事情をMasaomi Ise氏は歴史的経緯を引用してわかりやすく指摘しているので,下に記しておきたい。
そもそも中国は自由よりも「平等」を建前とする社会主義体制の国であり,その一枚岩の基盤も近年の沿海部と内陸部との経済格差によって,地方の農民や労働者らの不満をかりたてていることに注意を払いたい。
社会主義,共産主義の幻想は今や音を立てて崩れ始めており,特に今回訪れた西安(シーアン,昔の長安)近郊の農民たちの生活水準の貧しさに日本人観光客は驚かざるをえない。北京と比較して地方の産業・農業の生産効率の悪さには唖然とさせられる。上海や北京のような政治都市はインフラが進み,経済的に活況であるが,地方都市の経済的窮状は社会主義の理念を崩すことになるかもしれず要注目だ。それを防止するためにも,日本を仮想敵国とする歴史教育は今後も共産党の独裁存続には必要不可欠なものとして利用されるだろう。
「反日」の機運を作った江沢民政権の歴史教育とマスコミ統制
●サッカーアジア杯での「反日」ぶり
読者からこんなメールをいただいた。
今、サッカーアジア杯が中国で行われておりますが、ご覧になられておりますか。日本の試合では『君が代』がブーイングで聞こえません。試合中、日本がボールをとるとまたブーイングです。日本選手が負傷すると大喝采。日本のサポータには物が投げつけられているそうです。また、試合後、選手の移動バスに暴徒が押しかけ、運転手が中村、遠藤選手を乗せないまま、走り去ったそうです。
ただ中継がNHKとテレ朝なので『君が代』中のブーイングでは音量を絞る。試合中のブーイングでは「中国のファンは強いほう、或いは勝ち点の多いチームにブーイングをしますよね。」などととぼけようとしています。さすがに上記の問いかけに解説者(長谷川さん)は「・・・・」と無言でしたが。
若い人に嫌中国を増やしているようで、中国ODAも風前のともし火ですね。
過激な「反日」ファンには、中国の当局自身も危機感を抱いたようだ。読売新聞(7月29日)はこう報じている。
【重慶(中国)=伊藤彰浩】中国で開催中のサッカー・アジアカップに関し、中国共産主義青年団(共青団)機関紙「中国青年報」は29日、反日的ファンの礼儀を失した行動を戒める異例の記事を掲載した。
記事は日本対タイ戦(24日)について、日本人ファン罵倒(ばとう)やブーイング など「中国人ファンが過激な行為を見せた」ことを詳報。
署名記事では、「日本が選手の安全を理由にアジアカップに出ないようなことになれば、アジアサッカー史上最大の醜聞」「2008年には北京五輪が待っていることを忘れるな」とファンを厳しく批判した。
今回は、これだけの反日感情がどうして生まれたのか、日中関係をたどりつつ、振り返ってみよう。
●反ソからの親日
1971年、時の首相・周恩来は関西学生友好訪中団との会見において、こう語っている。
日本民族は偉大な民族です。昔、元はインドシナからモスクワ、朝鮮まで侵略しましたが、日本は二度、この侵略を撃退しました。・・・明治維新をことごとく反動的なものと決めつける見方がありますが、これは誤っており一面的です。明治維新は二面性を持っています。これは史的唯物論の見方です。進歩的な一面とは民族統一と西欧文明を吸収して資本主義を発展させたことです。
当時の日本の多くの歴史家よりも、はるかに親日的な見方である。1976年1月、周恩来が亡くなり、その2ヶ月後に学生代表団の一員として訪中した清水美和氏は、日中戦争で日本軍による市民に対する虐殺事件が起きたという現場を訪れ、犠牲者に追悼の意を表したいと要望した。
しかし、北京から随行した通訳も現地の当局者も頑として受け入れず、首を横に振るのみであった。「青年は過去のことにこだわるより未来のことを考えましょう」「お客様に不愉快な思いをさせたくありません」
当時、中国はソ連との対立を深めつつあり、周恩来は「敵の敵は味方」との戦略で米国や日本と結んで対抗しようとしていた。72年のニクソン大統領、田中首相の相継ぐ訪中がその成果である。そのために中国政府は日中友好を必要としていたである。
●開放・改革路線の「親日」
1978年10月にトウ小平副首相が日中平和友好条約の批准書交換のために来日した際には、新日鉄や松下の新鋭工場を見学し、「日本の進んだ経験に学ぶ」と繰り返した。トウは「開放・改革」路線によって、中国経済を近代化しようとしており、日本の経済力を必要としていた。中国ではその一挙手一投足がテレビで全国放映され、大衆は初めて見る近代的な日本の姿に衝撃を受けた。同時に北京でも日本映画週間が開催され、栗原小巻や中野良子に大衆は熱狂した。
ソ連のアフガニスタン侵攻(1979年)に中国指導者は危機感を募らせ、日米安保容認や、自衛隊増強を支持する発言が相次いだ。日本政府が防衛費のGNP比1%枠を守ると言明していたのに対し、伍修権(元解放軍副参謀総長)は、日本の防衛費は2%になってもよいとまで語り、歴史問題など存在しなくなったようだった。
日中関係は、トウ小平の後継者として胡耀邦(こようほう)・総書記の時代にピークを迎えた。83年11月に来日した時、NHKホールで開かれた「青年のつどい」で、胡はこう語った。
「日本民族は偉大な民族です。戦後の年代に日本人民は発奮して自国を現代化した経済発展国にきずき上げました。また同時に、過去の教訓を汲み取り、日本と隣国の関係正常化を逐次実現しています。
わたしは、日本民族の繁栄と発展を心から祝うと共に、皆さんが先輩のあとをうけつぐ時には、きっと、現在にもまして、立派にことを運ぶことができると信じています。」
歴史問題は「過去の教訓」というあたりさわりのない一語で片づけられている。
●胡耀邦攻撃のための「反日」
しかし共産党の長老たちは、胡耀邦が容認した自由主義的な思潮を「精神汚染」と嫌悪し、経済特区の設立を戦前の「外国租界の復活」と反発を強めていた。胡耀邦の親日的な姿勢は絶好の標的だった。
「抗日戦争40周年」にあたる85年8月15日、現在の反日歴史教育の一大拠点になっている南京の「大虐殺殉難同胞記念館」とハルビンの「731細菌部隊罪証陳列館」が公開された。また北京郊外、慮溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」も、この翌々年に開館している。
中曽根首相が8月15日、靖国神社を参拝すると、トウ小平、胡耀邦は批判を抑えたが、長老の彭真は自民党田中派訪中団に対して、「中日戦争で2千万人もの犠牲が出た」「私の知り合いの息子は日本軍に熱湯の中で殺された」などと激烈な日本批判を展開した。
中曽根は胡耀邦を救おうと、翌年の靖国参拝は見送るが、それも一時しのぎに過ぎなかった。学生たちも「民主化の旗手」胡耀邦を応援しようと、全国の大学で民主化要求のデモを展開したが、これがかえって災いした。87年1月、胡耀邦は「ブルジョア自由化」に断固とした処置をとらなかった事を党拡大政治局会議で批判され、辞任した。罪状の中には、訪日の際に「独断で日本の青年3千人を招待した」事も挙げられていた。
●「われわれの最も大きな失敗と誤りは教育にあった。」
1989年4月、胡耀邦の死をきっかけに、数千人の学生たちが天安門広場で追悼デモを行い、「胡耀邦万歳! 民主主義万歳!」と叫んだ。これが後に100万人もの学生デモに発展し、10万人の人民解放軍が武力弾圧して、少なくとも数百人の死者を出したと言われる天安門事件となる。この混乱の責任をとらされて胡耀邦の後継者・趙紫陽(ちょうしよう)も失脚し、トウ小平は上海で学生運動に断固たる措置をとった江沢民(こうたくみん)を党総書記に任命した。
トウ小平は天安門事件を振り返って、こう語る。
「われわれの最も大きな失敗と誤りは教育にあった。若い学生たち、青年、学生の教育が不足していた。」
しかし、ソ連、東欧の共産主義政権が崩壊する中で、マルクス主義は輝きを失っていた。江沢民は共産党政権の生き残りをかけて、愛国主義教育に活路を見いだそうとする。
1990年の大学新入生からは、全国で1ヶ月の軍事訓練が義務づけられた。学生運動の拠点だった北京大学と上海の復旦大学は、訓練期間が1年とされた。中学や高校でも歴史の時間が増やされ、中国の近代が日本や欧米の侵略による屈辱の歴史であったことが教え込まれた。各地で革命や戦争の記念碑、記念館が建設され、ビデオや映画が作られた。
江沢民は何東昌・教育相にあてた手紙に、今日まで愛国教育の指針とされる指示を行っている。「アヘン戦争(1840年)以来の百年以上にわたり中国人民が列強に欺かれ辱しめをうけた。」 「中国共産党が抗日戦争と解放戦争を闘い、新中国を打ち立てた。解放後も反侵略の戦争を経て中国人民を侮ることができないことを証明した」
●愛国主義を煽るマスコミとインターネット
マスコミも党中央から「愛国主義教育の社会的雰囲気を創造する」ことを報道機関の至上任務とされた。党宣伝部門の統制下におかれているので、党中央への批判的報道はもってのほかであり、その許容範囲を超えた報道をした場合は、「整頓」という名の査問や処分が待っている。
一方、マスコミの多くが、独立採算性に切り替えられて、読者増を図るためにセンセーショナルな見出しをつけた刺激なニュースを求めるようになった。そして日本なら、いくらどぎつく叩こうと、どこからも文句がつく恐れはない。こうして「反日」記事は中国マスコミの恰好のテーマとなった。
またインターネットも、当局の規制下にある。02年末にはネット上で江沢民の政治方針を批判する文章を発表した民主活動家が、国家転覆煽動罪で懲役4年の実刑判決を受けている。大手ポータルサイトは当局の規制を恐れて、愛国主義を鼓舞するニュースや評論に力を入れて、自らの安全を図っている。
こうしたマスコミやインターネットの影響で、過激な反日ムードが醸成され、01年には日本軍の軍艦旗に似たデザインの服を着た女優が、メディアやインターネットで「売国奴、小日本(日本を馬鹿にしてこう呼ぶ)の芸妓」と叩かれ、あるイベントでは観客に引き倒され、糞尿をかけられるという事件まで起こった。
●「中国人民を侮ることはできない」
江沢民が愛国主義教育を始めて10年後の1999年5月、ユーゴスラビア空爆に向かった米軍機が誤ってベオグラードの中国大使館を爆撃した。女性記者など3人が死亡、20数人が重軽傷を負った。中国政府は意図的な攻撃との見方を示し、北京の大使館街は学生を中心とするデモ隊で埋まった。現場を取材した清水美和氏はこう報じている。
白人のテレビクルーが群衆に取り囲まれ、突き倒される。歓声と笑い声。倒れたカメラマンに向かって嘲(あざけ)りの声が飛ぶ。外国人とわかると何をされるかわからない。参加者への取材はやめ、息を飲んで様子をうかがう。興奮状態の群衆は争うように石を大使館に投げつける。
デモ隊の先頭には「中国人民を侮ることはできない」という江沢民のメッセージが掲げられていた。江沢民の愛国主義教育によって育てられた愛国青年たちである。
しかし当局も暴動が激化する事を恐れて、警官による規制を始めた。泣きながら抗議する学生たちは、党指導部が弱腰過ぎると感じ、特に国家主席である江沢民が事件後、ただちに怒りを表明しなかったことに不満を隠さなかった。
この時期、江沢民は副主席の胡錦濤にデモの収拾を任せて、いっさい表には出なかった。事態の沈静化に失敗した場合に、自分の権威が傷つくのを恐れたと見られている。江沢民が育てた愛国青年たちは、ついにその親をも脅かすまでに成長していたのである。
●繰り返される民衆暴動
こういう群衆の暴動が中国近代史を左右してきた。89年には前述の天安門事件で、100万人の学生が集まった所を軍部が武力で押さえ込んだ。60年代には1500万人もの青少年が「紅衛兵」として暴れ回り、全国で40万人もの犠牲者が出たと推定される文化大革命が起きている。
戦前に遡っても、1919年の五・四運動では第一次大戦後、ドイツの山東権益が日本に引き渡される事に怒って、北京の学生がデモを起こし、親日派高官を焼き討ちした。清国の末期に起きた義和団の乱も、群衆暴動の一例である。この時は北京の外国大使館街が暴徒に囲まれ、その救援に日本軍が大きな役割を果たした。
こうした歴史を通観すると、巨大な群衆が愛国主義的激情を燃え上がらせて暴徒と化す現象が繰り返し起こっている事が分かる。この奔流を御すのに失敗して失脚した中国の統治者は少なくない。
我々がテレビで見ているサッカー場の反日ファンなるものは、この奔流が現代に蘇ったものである。それは天安門事件の後に誕生した江沢民政権が、民主主義を要求する群衆の力を恐れ、徹底した愛国主義教育で洗脳して育てたモンスターである。その恐ろしさを知っているのは江沢民自身であろう。
●愛国主義の情熱と国際主義の精神
86年11月、「日中両国の二十一世紀の青年の友好を深めるための施設」として日本の無償援助101億円で日中青年交流センターが作られることになり、その定礎式で胡耀邦はこう演説した。
「 歴史において、狭隘な愛国主義しかわきまえず、その結果、誤国主義に変質してしまった者は少なくない。中日両国の青年は歴史の経験と教訓の中から知恵を汲み取り、自分自身を愛国主義の情熱と国際主義の精神に富んだ気高い現代人に鍛えていくよう、私は望む。」
明らかに前年の反日デモを念頭に置いた言葉であり、これが胡耀邦の政治的遺言になった。胡耀邦が若い頃から目をかけて育ててきたのが、現在の胡錦涛・国家主席である。中国がグローバル経済の中で成長を続け、さらにオリンピックや万国博覧会など国際的イベントを成功させるためには、胡錦涛政権はもう一度、この胡耀邦の遺言に立ち戻る必要がある。
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