女の世紀を旅する
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2003年09月14日(日) 北朝鮮の拉致問題 田中均審議官への爆弾テロ行為

《 北朝鮮の拉致問題 田中均審議官への爆弾テロ行為 》

2003.9.14







●石原慎太郎の「爆弾当たり前」発言 

 たしかに,今回の石原慎太郎の発言は勇み足にちがいない。坊主憎ければ袈裟(けさ)まで憎いということなのだろう。公開の場で,つい口をすべらしてしまったのだろうが,「爆弾を仕掛けられて当たり前」というテロ行為を容認する発言はいただけない。

そもそも,小泉内閣の合意の上で事を進めてきたのだから,田中均(ひとし)審議官や外務省の対応だけの責任問題ではない。むしろ,石原氏が本当に糾弾しなくてはならないのは,小泉内閣の北朝鮮へのひよわな宥和政策ではなかろうか。これでは,拉致被害者の人々が気の毒である。はたして平和協調外交で譲歩するような国なのか。拉致被害者家族会の人々は,経済制裁もしない,まったく頼りない政府の対応にしびれを切らしている。

対応がひよわな日本当局に愛想をつかして,アメリカに経済制裁などの強硬政策を訴えに行った拉致被害者家族の人々の怒りは深く,いま一番望んでいるのは北への強硬手段であり,もはや話し合いでは解決できないことを痛感しているのである。

ミサイル部品や覚醒剤や工作員などを運んだ万景峰号の新潟入港をいまだ認めているのだから政府の対応にはあきれる。

とはいえ,爆弾テロを容認する風潮をつくってはならないだろう。むしろ,小泉政権の断固とした北朝鮮への強硬措置こそが拉致問題の打開につながるということを忘れてはならない。




●石原慎太郎の発言の要旨

 外務省の田中均外務審議官の自宅で不審物が見つかった事件で、「爆弾を仕掛けられて当たり前」などと発言した東京都の石原慎太郎知事は9月11日夕、都内で総裁選候補の亀井静香前政調会長の応援演説に立ち、次のように発言した。

 「 私は、この男(田中外務審議官)が爆弾仕掛けられて当然だと言いました。それにはですね、私は爆弾仕掛けることがいいことだとは思っていません。いいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか。

 起こっちゃいけないああいう一種のテロ行為がですね、未然に防がれたかもしれないけれど、起こって当たり前のような今までの責任の不履行というのが外務省にあったじゃないか。国民に向かって嘘をついていた。だれのための外務省かわからないことをずっとやってきた。

 だから国民が怒って、その怒りがつまってつまって、高まってああいう形になる。これはね、私は否めないと思いますよ。私は何もね、あの男が殺されて当たり前だなんて言っているわけじゃない。国民は本当、怒ってる。政府は何をしてるんだ。外務省は何をしてるんだ。日本人が150人も連れて行かれて、ほとんど殺されて、それで抗議もしない。」


http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/kako.htm

(石原知事の記者会見 平成15年9月12日 50分)




●「それは内政干渉だ」

昨年の11月9日、小泉首相の訪朝の約2ヶ月後、ブッシュ大統領の信任厚いリチャード・ローレス国防次官補(東アジア・太平洋担当)が来日して、異例の強い言葉で日本外務省と田中均・アジア大洋州局長の「暴走」を正面から論難した。

席上、米側が、核開発を認めた北朝鮮への重油供給をストップする方針を示したことに対して、田中局長は「それでは北の社会が崩壊し、日本に難民が押し寄せる」として、対北宥和派がよく用いる「難民カード」を出したところ、ローレス氏は「北朝鮮の難民には船も油もない」と一蹴した。

そこで田中局長が「しかし、わが国には拉致問題があり、、 」と反論した所、「北の現体制が変わらない限り、拉致問題は解決しない」として、朝鮮銀行系の金融機関に公的資金を投入することも、日朝貿易もすぐにストップすべきと、強く迫った。

田中局長が「それは内政干渉だ」と声を荒げて反論しようとしたが、ローレス氏は次のように一蹴したという。

内政干渉ではない。ミスター田中、あなたはいったい何を守ろうとしているのか? 日本の金融機関から北朝鮮にカネが流れていることは国際的に明らかだ。そのカネで北朝鮮は何をしている? テロリストを支援し、核開発をしているではないか。内政干渉? 冗談じゃない! あなたが行おうとしていることこそ、国際的なルール違反だ。しかも、重大な違反だ」




●「あなたはいったい何を守ろうとしているのか?」

「あなたはいったい何を守ろうとしているのか?」というローレス氏の反論は、論争の核心をついている。田中局長の言い分は、「朝鮮銀行系の金融機関への公的資金投入」も「日朝貿易」も、日本政府の内政問題であり、それについてアメリカ側からとやかく言われることは、国家主権の侵害だと言うのである。

 ローレス氏は、それを「内政干渉? 冗談じゃない!」と一言のもとに切り捨て、公的資金投入や日朝貿易の方が「国際的なルール違反だ」と言う。これらが北朝鮮に核開発やミサイル開発の資金を与え、日本ばかりかアメリカまで核ミサイル攻撃を受ける恐れを増大させている。

たとえて言えば、近所に住む凶暴なゴロツキが包丁を買いたがっている時に、カネを与えるようなものだ。田中局長が、隣人にカネを与えるのは自分の勝手だ、と言うのに対し、ローレス氏は、住民全体の危険を増すようなことをするのはルール違反だ、と反論しているのである。

田中氏は住民全体の安全を守ろうとしているのか、それともそんな事はお構いなしに個人的な自由だけを守ろうとしているのか、「あなたはいったい何を守ろうとしているのか?」というローレス氏の問い、というより糾弾は、この点をついている
のである。




●「国家主権」と「人権」

「内政干渉? 冗談じゃない!」という言葉も、単なる売り言葉に買い言葉ではなく、北朝鮮宥和派の田中局長の矛盾を衝いた言葉である。というのも、北朝鮮が拉致・覚醒剤密輸・領海侵犯など日本に対して内政干渉よりもはるかにひどい主権侵害をしているのに、それらは不問に付し、同盟国アメリカからの日米両国の安全に関わる要求を「内政干渉」と突っぱねるのは、まさに「冗談じゃない」としか言いようのない二重基準だからである。

拉致被害者5人が帰国した約1週間後の10月23日、5人を再び北に帰すのかどうか、という問題で、田中局長と阿部晋三官房副長官の間で激論があった。

「5人が北朝鮮に戻ったあと、日本に再帰国する保証はあるのか」 安倍氏の問い掛けに田中氏は明確な答えを返せなかった。
安倍氏は「5人が二度と日本へ戻って来なかったら、世論を抑えることができない。そもそも拉致は国家主権の侵害だ」と迫った。
田中氏は「外交には段取りがある」と述べ、こう反論した。「5人を戻さなければ私の交渉パイプが維持できない」

「私の交渉パイプ」とは北朝鮮の「序列順位が極めて高い軍関係者」との事だが、ここでも田中局長が守ろうとしているのは、その怪しげな外交パイプであって、ようやく帰ってきた拉致被害者をどう護るかという人権問題については、何も考えていないのである。そして安倍氏の主張する「そもそも拉致は国家主権の侵害」という視点がない。

「『国家主権』を蔑ろにする者は必ず『人権』を無視するのです」とは、中西輝政・京都大学教授の言であるが、まさに田中均局長はこの「国家主権を蔑ろにし、人権を無視する者」の典型である。




●「国家主権」は「人権」を護るために生まれてきた

なぜ「国家主権」を蔑ろにする者は必ず「人権」を無視するのか。中西教授はこう説明する。

なぜかというと、「国家主権」はそもそも「人権」を護るために生まれてきた制度そのものだからで、「国家主権」があって初めて「人権」が護られて存立する。

したがって、今回の拉致事件のように、「国家主権」がしっかりしていないからこそ、国民一人ひとりの「人権」が侵害されるのです。

国家主権と人権の関係は、家庭とその中の一人ひとりの関係に置き換えてみれば、分かりやすいだろう。家庭が凶暴な隣人の言うがままになっていたら、子供の安全も守れない。家庭が自由と独立を維持してこそ、子供を護ってやれる。

拉致問題というのは、その子供の一人が誰かにさらわれてしまった、という問題なのである。それでも親が平気で何もしないのなら、残った兄弟たちは、自分たちがさらわれても、また親は何もしてくれない、と思うに違いない。家庭への信頼はなくなり、また子供たちの人権も不安にさらされる。

国家主権がしっかり守られてこそ、国民の人権も守られる、これがまっとうな国家での原則である。国家を人権を抑圧する機構だと考えるのは、子供を虐待する家庭か(北朝鮮のように)、あるいは世間知らずの我が儘な子供が親に逆らっているというような異常な場合についてのみ言える事である。




●「日本という国がこのままではいけない」

昨年の9月17日、小泉首相訪朝の日に、拉致被害者横田めぐみさんの死を告げられた母・早紀江さんは、こう言った。

人はいずれみな死んでいきます。めぐみも自分の命を犠牲にして日本という国がこのままではいけない、ということを教えてくれた。濃厚な軌跡を残してあの子はその命を捧げました。

まさしく拉致事件によって、今まで我々が国家主権を蔑ろにしてきたあげく、ついには国民の人権まで守れない状態にまでわが国が衰弱してしまった事に多くの国民が気づいた。「日本という国がこのままではいけない」と知った。

めぐみさんの父親・横田滋氏が代表を務める「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」では、送金停止と船舶入港阻止を内容とする北朝鮮制裁法の設立を要求している。

それは自国民の人権を守るために、国家主権を発動すべきという主張であり、その内容は冒頭のローレス氏の主張とほぼ同様である。いやしくも自国民を守ろうという気概のある国なら、この程度の制裁は当然であろう。少なくともそれを交渉のカードにして「圧力」を加えるくらいの事は考えるべきだ。

横田さんら拉致被害者家族の運動は、まさに人権を守るための国家主権とは何か、という国家の根源の所において、「日本という国がこのままではいけない」と問いかけているのである。



●「わしは日本を信じる。おまえも日本を信じろ」

国家主権を蔑ろにし人権を無視するのは、ひとり田中均局長だけではない。その先輩の槙田(まきた)邦彦・アジア局長もかつてこんな発言をした。

たった10人のことで日朝国交正常化交渉がとまってもいいのか。拉致にこだわり国交正常化がうまくいかないのは国益に反する。(平成11年12月、自民党外交部会)

「たった10人」という言い方に、氏の酷薄な人権感覚が窺われる。その10人の一人がたまたま自分の娘だったら、と少しでも犠牲者家族の心底を思いやれば、こんな言い方はとてもできないはずである。そこには公僕として国民の人権を護ろうという使命感どころか、同じ日本人として同胞の苦しみ悲しみを思いやるという同情心すら見られない。

そもそも国家が何らかの「国益」のために、政策として拉致された人々を見捨てたとしたら、国民はもはやそのような国家を信じなくなるだろう。国民はいつ自分たちが「見捨てられる」側に廻るか、分からないからだ。国民が税金を払うのも、
いざという時には警察や自衛隊によって自分たちを護ってくれるという国家への「信」があるからである。この「信」が失われてしまえば、国家は成立しえない。これ以上に「国益」を損なうものはない。

拉致されて、北朝鮮によって死亡したと通告された増元るみ子さんの父、正一さんは79歳で亡くなる直前、子息である照明さんに「わしは日本を信じる。おまえも日本を信じろ」という言葉を残された。

「日本を信じる」とは、わが国が国民の人権を守るために、出来る限りの事をしてくれる国家だと信ずるという事だろう。今の政府は信ずることはできないかもしれない。しかし、日本国民が「今のままではいけない」と気づけば、かならずや国民の人権を守るために、主権を発動する国に立ち直るはずだ、と正一さんは信じていたのだろう。



●主権とは自己犠牲の歴史の上に築かれるもの

国民を守るためには、主権を行使する公僕が自らの生命の危険を冒さねばならない場合がある。領海侵犯した北朝鮮工作船が停船命令に従わず、銃撃を仕掛けてきた際には、海上保安庁職員は危険を顧みずに応戦した。工作船には拉致された国民がいるかもしれず、また国民を蝕む覚醒剤が積まれているかも知れないからである。

この時には我が方は2名の負傷者のみで、幸いにも犠牲者は出なかったが、一朝事ある時に、自らの命の危険を顧みずに、国家の主権を担って国民を護るのが、軍人の職務である。その職務のために命を捧げた人々の慰霊を執り行う事は、国民を護ることが国家の責務である事を確認し、今後もその責務を果たし続けるという国家の意思表明にほかならない。

「主権とは単なる概念ではなく、自己犠牲の歴史の上に築かれるものなのです。」

と中西教授は指摘する。日本国民にとって「自己犠牲の歴史」を象徴するのは靖国神社である。したがって首相の靖国神社参拝は、今後も国家が国民を護ろうとする決意の表明であり、それは国家主権を象徴する行為なのである。


●靖国神社と国家主権

 日本が本来の国家主権に目覚める事を恐れる中国は、しきりに首相の靖国参拝を牽制する。日本国内の親中メディアを使っていつまでも歴史問題で罪悪感を抱かせ、中国の言いなりになって、巨額のODA(政府開発援助)という慰謝料を払い続けさせる事こそが、かの国の国益なのである。

一昨年、小泉首相は就任前に終戦記念日8月15日に靖国神社を公式参拝するという公約を掲げていたが、中国の圧力に屈し、13日に前倒し参拝をした。これは日本の主権が中国の影響下にある事を、日本国民の前にも国際社会においても明らかにしたのである。

あるアメリカのアジア戦略の専門家はヘラルド・トリビューン紙で、「小泉はあえて15日に行くべきだった。そしてこのカードをもう中国が使えないようにすべきだったが、彼はそういう絶好の機会をとりこぼした」と書いた。

一方、昨年2月に訪日したブッシュ大統領は明治神宮を参拝したが、複数の情報ソースによれば、大統領は当初、小泉首相を伴って靖国神社を参拝することを外務省に打診したとされる。
これは中国の靖国カードを無力化し、日本の主権を回復させてアメリカにとって自立した信頼できる同盟国にしたい、という意図があったのだろう。小泉政権はこの二度目の絶好の機会をも取りこぼしてしまったのである。


●蜂の命をかけた一刺し

こうした流れから見れば、拉致問題も靖国問題も、わが国が自らの主権をどう守るか、という根元的な問題に結びついていることが分かる。この点を中西教授は福沢諭吉が「文明論之概略」の蜂の針の喩えを引用しながら、次のように説く。

「われわれ庶民は普段の生活においてはそれぞれ家業に勤しみ、日常生活を営み、そして楽しみ、喜びを追求して生きていればいいわけですが、しかしそこ(国家主権)に触れれば命をかけてでも突き刺すという一つの針を、国民一人一人が持っていなければ国家は成り立たず文明の恩恵は享受できない、と説いているのです。蜂はひとたび刺せば、自分は死んでしまいます。それほどまでに主権国家の独立とは、個々の国民にとっても、人間としての根元的な生と密接な関係にあるものなのです。「主権の危機」に備える
心こそ、国家としての危機管理の核心であり、国民としての「究極の覚悟」に関わるものだからです。なぜなら、国家主権が崩れれば、内外の諸力は必ず国民一人一人の生命・安全を脅かすからです。その意味で、主権と人権は究極的には一体なのであり、それを踏まえることが「文明」なのです。」


わが国の主権も人権も平気で侵害する近隣の「非文明国」にどう対応するにか、国民としての「覚悟」が問われている。


カルメンチャキ |MAIL

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