女の世紀を旅する
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2002年12月16日(月) 北朝鮮の悲劇(9):強制収容所の実態

北朝鮮の悲劇(9) 強制収容所の実態  
               
                 2002.12.16






 そもそも「どういう理由で収容所送りになるか」という設問自体,実は,北朝鮮の恐怖政治の現状からみればナンセンスである。

 「ひとことでも,体制を批判するような言動をしたら,親子三代が殺される」 このことに恐怖心を抱かない人はいまい。それだけでも充分に恐ろしいことなのだが,それよりもはるかに恐ろしいことに,国家安全保衛部(秘密警察)に目をつけられたら,おしまいなのだ。

 儒教文化の影響なのだろうが,朝鮮半島の人々は家族を非常に大切にする。もし,本人だけを収容所に送ったら,必ず家族の恨みを買う。ならば,家族まるごと,三代まとめて,収容所に送ってしまえ,こういうことなのだろう。「家族ごと拘束してしまえば,体制転覆はない」 もし金正日がこういう発想でいるとしたら,いつか自分の家族もそういう報復を受けることになるだろう。





●帰国運動のお膳立て

 1959(昭和34)年12月、北朝鮮の清津港に、975名の日
本からの帰国者を乗せた最初の船が到着した。その時の模様を、
朝鮮中央通信社は「祖国同胞6万余が港に出迎う 歓迎のどよ
めき清津をうずめる」との大見出しで、こう伝えた。


 帰国運動の発端は、この年の8月11日、神奈川県川崎市の
在日朝鮮人グループが祖国に集団帰国する事を決議し、受け入
れを要請する手紙を金日成主席に送った所から始まる。翌日、
この決議は東京で開かれた在日朝鮮人の中央大会で帰国実現決
議として採択され、9月8日には金日成が平壌で開かれた共和
国創建10周年記念慶祝大会で「共和国政府は、在日同胞が祖
国に帰り、新しい生活がいとなめるようすべての条件を保障す
る」と演説した。

 こうした矢継ぎ早の動きから、張明秀は,その著『裏切られ
  た楽土』の中で帰国運動は北朝鮮から朝鮮総連への指示による
  ものと考えている。この時期、北朝鮮は日本以外にも帰国を呼
  びかけ、サハリンから約2千名、中国東北地方から数千名の帰
  国を実現させた。

 当時の北朝鮮では、56年からのフルシチョフによるスターリ
ン批判が波及し、金日成の個人崇拝に対する批判が党中央委員
会で噴き出し、中ソも介入してきた。金日成は大規模な血の粛
清でこの危機を乗り切ったのだが、その後で起死回生を狙って
自分の個人的名声を内外にアピールするイベントとして、この
帰国運動を仕立て上げた、というのが張秀明の推察である。




●「地上の楽園」

 帰国実現決議を採択した中央大会では、朝鮮総連議長の韓徳
銖が、記念講演で次のように述べた。

「 1961年度には電力、石灰、セメント、化学肥料、漁獲高
など重要産業の人口一人当たりの生産量で、発展した日本
を凌駕することになり、穀物生産では人口一人あたり2石、
服地は20m以上、住宅は440平米、先進的工業・農業
国家として発展する。」

 総連の宣伝部が作成した「帰国者のための資料」では、次の
ような記述がある。

「その昔、絹の着物を着て、白米に肉のスープを食べてく
らしていたのは一部少数の千石君(大地主)の金持ちであ
ったが、今日ではすべての人民が万石君に劣らない生活を
しているので、北朝鮮を「地上の楽園」と呼ぶのも決して
偶然ではない。」

 このようなパンフレットを用いて、一年たらずの間に日本各
地で2万余の大小集会が開かれ、帰国運動の大キャンペーンが
展開された。

「楽園」幻想を広める上では、日本人も加担した。日朝協会理
事の寺尾五郎は、北朝鮮に招かれて、賓客として大切にもてな
した。寺尾はそれを「三十八度線の北」という訪問記として出
版し、それを総連が「日本人が書いた客観的な本」として、帰
国運動に最大限に利用したのである。

 また社会党や共産党も帰国運動を積極的に支援した。共産党
の機関誌アカハタは「この運動を支持し、協力することは日本
人民の義務であり、人道上の立場から速やかに解決すべき問題
である」(58年11月29日)とぶちあげた。大江健三郎は、
帰国者のテレビドラマを見て涙を流し、「自分には帰るべき朝
鮮がない」と嘆いた。

 このように金日成の指示のもと、総連を中心に、社会党・共
産党、マスコミ、進歩的文化人が一体となって、9万3千人以
上もの人々を帰国船に乗せたのだった。




●「オペラを通じて両国民の理解と友好を深めたい」

 帰国者の中には、日本で成功して、自分の技術や財産で祖国
の建設に尽くしたいと志す人々も少なくなかった。その中に当
時藤原歌劇団で活躍した,日本一の美声と言われたテナー歌手
  金永吉(永田絃次郎)がいた。金永吉は昭和35(1960)年1月、
  日本人の夫人と4人の子供を連れて、帰国船のタラップからお
  別れに「オーソレミ」を歌って、祖国に捧げた。出発直前に、
 「新潟日報」の記者によるインタビューでは金永吉はこう語った。

「妻は日本人ですが、4人の子供とともに同行してくれる
ことになりました。一番上の子は、上野学園大のピアノ科
3年生ですが、平壌に国立音楽大学があるから心配ありま
せん。

 両国のオペラが自由に交流できる時期は1,2年後に来
ると思います。・・・オペラを通じて両国民の理解と友好
を深めたいと思います。」

 金永吉の帰国は総連が直接、説得したものだったという。オ
ペラ歌手まで帰国するという宣伝効果を狙ったのだろう。




●消えた5人家族

 金永吉は、帰国後、平壌で高級住宅と乗用車をあてがわれ、
「功勲俳優」の称号を与えられた。しかし、帰国の2ヶ月後、
平壌での「金永吉帰国独唱会」で早くも一悶着が起こった。党
から革命歌20曲を歌うことを要求され、金永吉はこれを拒絶。
さらに生活費のために出演料を党に求めた所、「ブルジョア根
性」と非難された。

 やがて金永吉は地方都市の海州市に追放され、そこで大阪か
らの帰国者が生活苦を訴えたために、どこかに連行され、さら
にその日本人妻が服毒自殺を遂げる、という事件を知って、党
に抗議をする決心を固める。金永吉を先頭に約30数名の帰国
者が平壌の党中央本部に抗議に押しかけた所、全員が逮捕され
てしまい、金永吉はそのまま消息を絶った。

 続いて平壌音楽大学に在学していた長女は退学処分となり、
しばらく平壌芸術劇場で切符売りをしていたが、やがてどこか
に連行された。ついで、夫人、次女(18歳)、三女(13
歳)、長男(16歳)と一人ずつ連行されて、ついには家族全
員が姿を消した。

 90年以降、北朝鮮からの脱出者が急増して、帰国者たちの
消息も少しずつ分かってきた。平壌市内にある勝湖里収容所で
10年間収容されていた黄龍水が、91年に中国に脱出して、そ
の証言から、金永吉が60年代の中頃から、同じ収容所の別の
棟にいた事が判明した。四半世紀も、収容所暮らしを続けてい
た事になる。
 



●「全財産を没収し、家族を移住させる」

 92年8月、中国経由で韓国に脱出し,『北朝鮮脱出』を著わ
  した姜哲煥(カンチョルファン 当時24才)は、帰国者の孫
  だった。祖父は京都市と福知山市でパチンコ店を3軒経営し、
  朝鮮総聯京都府本部幹部であった人で,祖母は戦前から日本で
  共産党に加わっており、「祖国ではいい地位が準備されている」
  との総連議長・韓徳銖の勧めで、一家を挙げての帰国に踏み切
  った。

 当初は、平壌の中心街の高級幹部用住宅を割り当てられ、日
本での財産のお陰で、自家用車やテレビ、ピアノまで持ってい
た。金正日の銅像建設の際には、5千万円もの寄付を行った。

 帰国して16年後の77年7月、平壌市経済委員会の副委員長
をしていた祖父が、仕事に出かけたまま帰らなくなった。職場
に問い合わせると「出張に行っている」という。近隣では帰国
者3世帯が次々に行方不明になっていたが、「うちは莫大な献
金もしているから、大丈夫だろう」と話し合っていた。

 翌8月、拳銃を持った国家保衛部員8人が土足のまま家に上
がり込んで、祖母に「お前の夫は祖国と民族に対し、死に値す
る罪を犯した。全財産を没収し、家族を移住させる」と言い渡
した。保衛部員たちは、腕時計などをポケットに入れ始めたの
で、事情の分からない8才の妹の美湖が「どうして家のものを
持っていくの」と聞くと、殴られた。翌朝、一家はわずかな衣
類と炊事道具だけを持って、ソ連製のトラックに乗せられた。
 




●帰国者5千数百人の強制収容所

 一家が運ばれたのは、平壌の東北100キロの地点にある政
治犯強制収容所だった。67平方キロもの広大な土地が電気鉄
条網で囲まれ、1キロ間隔で機銃を備えた監視塔がある。ここ
では約5万人の政治犯が収容されているという。

 一家を乗せたトラックは、高さ3mもの鉄の門をくぐってか
ら、さらに3,40分も走って「十班」と名付けられた集落に
着いた。住まいは土と石灰で作ったブロックを重ね、板葺きに
した長屋。一家5人が横になったら一杯になってしまう一部屋
と、かまどのある土間の二間しかなかった。

 十班には1棟に5世帯ほどが入居したこのような長屋が、5,
6百棟あり、日本からの帰国者ばかり5千数百人が住んでいた。
この収容所だけで9万3千余人の帰国者のうち、二十分の一以
上が収容されている計算となる。北朝鮮にはこのような政治犯
収容所が15カ所ある。

 十班では、祖母の日本での顔見知りもかなりいた。互いに抱
き合い、「どうしてここに来たのか」と言いながら泣いた。自
  分がなぜ収容所に入れられたのか分からない人がほとんどだった。

 一家は翌日から農作業、山菜採取、金鉱山発掘などの作業に
従事させられた。朝6時の人員点呼から夜8時まで、途中30
分の休みを2回とるだけで、ぶっつづけに働かされる。午後
10時から一時間「金日成の徳性談」について思想教育があり、
午後11時にようやく眠るという生活だった。




●食事は一日トウモロコシ550グラム

 食事は成人で一日当たり550グラムのトウモロコシを1ヶ
月分まとめて支給される。副食はドングリで作った味噌をスプ
ーン1杯分。週に一度だけ塩がついた。いつも腹を空かせてい
て、カエル、ヘビ、ネズミ、雑草など手当たり次第食べる。姜
哲煥は13歳の時に、トウモロコシ畑でネズミの巣穴を見つけ
た時の嬉しさが忘れられない。掘り進むと4匹もネズミが見つ
かり、焼いて食べた。

 他の収容者からも「半チョッパリ(半日本人)」と蔑まれ、
厳しい生活に適応できずに早死にする人も多かった。77年から
79年までに、日本人妻だけで新たに14人が入所したが、その
うち12人は肺病や飢えなどで死亡、無事に出所できたのは2
人だけだった。

 飢えと重労働から逃れるために、逃亡を図る人も少なくない。
しかし、栄養不足で体力のない収容者は、険しい山間にある外
壁にたどりつくことすら難しかった。逃亡を図って捕まったり、
保衛部員を殴るなどして者は、毎月の「公開処刑」で銃殺され
た。



●10年目の出所

 強制収容所は、いずれは外に出られる「革命化区域」と、終身刑
に相当する「完全統制区域」の2つに分かれていた。後者に収容さ
  れた人々は「一度入ったら死ぬまで」,いや「死体となっても出ら
  れない」地獄と言われる。前者の「革命化区域」は反革命分子の家
  族を収容しているものである。

   姜哲煥の一家が収容されていた革命化区域では、毎年2月16日
  金正日の誕生日に、入所者を集めて、釈放される人の名簿が発表さ
  れる。

 入所10年目の1987年、ついに姜哲煥の一家の名前が呼ばれ
た。皆で喜びと悔しさが入り交じった涙を流す。全員で金日成、
金正日万歳を叫んだ後、所長が「お前たちの未来は燦然と開け
ている」と述べたが、これはまったくの嘘だった。一度政治犯
収容所に入ったものは、一生、そのレッテルを貼られ、国家保
衛部の監視のもとで暮らす。

 一家は、収容所からそう遠くない地域に家を持ち、農業をし
ながら暮らし始めた。しかし、10年の苦労がたたったのか、
父親は89年12月胃潰瘍で死ぬ。その半年後には祖母も病死し
た。祖母は20数年前の党大会で、金日成と並んで写真をとっ
たことがあるほどの信奉者だった。その祖母は亡くなる前にこ
う言った。

「死ぬ前に一度、済州島に帰りたい。お前たちを死なせる
ために、ここに連れてきたようなものだ。金日成、金正日
に騙された。韓徳銖をこの手で殺してやりたい。」

 祖父と生き別れ、今また父や祖母を失って、姜哲煥の心に自
由になりたいという思いが芽生えていった。ある日、韓国のラ
ジオ放送で録音したヒット曲「釜山港に帰れ」を聞いているこ
とを密告され、国家保衛部から呼び出しを受けた。残された道
はただ一つ、中国から韓国に脱出することだけだった。

 無事脱出できた姜哲煥は、ソウルで張明秀の取材に「日本に
  は今でも総連はありますか?」と尋ねて、あると張が答えると、
  「あるのなら、手榴弾を投げつけ、絶対、復讐してやる」と怒
  りをあらわにしたという。


 朝鮮総連ばかりでなく、「楽園」への帰還事業を翼賛した日
  本の共産党・社会党も、マスコミも、進歩的文化人らも、自己
  の責任を頬被りし続けており,その贖罪は大きい。


カルメンチャキ |MAIL

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