女の世紀を旅する
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2002年11月06日(水) |
拉致事件を放置してきた「ひよわな国・日本」 |
《拉致事件を放置してきた「ひよわな国・日本」》
2002.11.6
なんと24年間も日本政府やマスコミは拉致事件にフタをし,証拠が数多くあるのにそれを放置してきた。国家が国民を守る意志がなかったといえよう。
拉致された人々の多くが死んでいる事実に直面して事の重大さに気づき,大騒ぎしている。その対応があまりにも遅すぎるのである。
拉致事件被害者の話は日本の安全保障の欠陥を明確にえぐりだした。沿岸に北朝鮮の工作船が接近、住民を拉致した。それが何度も何度も続いたのに、日本政府は何の対策も講じなかった。
政府、警察、政党、いずれも動かず、新聞・テレビなどマスメディアも報道しなかった。こんな恐ろしい事件を単なるデマとしてしまったのだ。国民を守るという意識がまったくはたらかなかった。もし、沿岸警備を強化し、工作員の活動を警戒し、国民に情報が伝わっていれば、事件は防げたのではないかと思わずにはいられない。
唯一,日本のタブーに挑戦した気骨のある記者がいた。産経新聞記者の佐伯浩明氏である。彼は,10年ぐらい前から拉致された人々を救済する報道キャンペーンをはり,ネットで拉致の真相を告発するなど孤軍奮闘してきた。その他のマスコミがこの事件を取り上げず,黙殺していた時期に「拉致は日本の国家主権の侵害である」と訴え続けていたのが印象的である。
●国民の安全を守る意識の欠如
北朝鮮が拉致事件を認めたあと、関係者が手記や談話を出した。その中の一つ、拉致被害者有本恵子さんの母親嘉代子さんが雑誌に掲載した手記で、次のように書いている。1988年9月、同じ拉致被害者の石岡享さんから札幌の実家に有本さんら3人と北朝鮮にいるとの手紙が届いた直後のことだ。
「石岡さんのご家族は手紙をすぐに札幌の社会党に持っていき、私たちはコピーを警察に持っていきました。恵子は、あの手紙が何らかのかたちで北朝鮮にばれたので殺されたのかもしれません。警察が漏らすはずはないと思います。北朝鮮に言ったのは、当時の社会党ではなかったかと思っています」。
嘉代子さんは続けて書いている。「外務省に行った当初は、国交がないからどうしようもないで終わりでした。・・・大阪の弁護士会、日弁連にも行きました。でも、政治家も役所もみな隠蔽しようとするばかりでした。マスコミにも内容証明付きの手紙で訴えていましたが、ほとんどが無関心でした」。国民の安全を守るべき機関が機能を果たしていない、というより、危害を加える存在とさえ認識されているのだ。
それは、日経新聞の元記者杉嶋岑氏が9月20日朝日新聞のオピニオン欄に掲載した次のような文で一層鮮明になる。同氏は1999年12月、北朝鮮を訪問中にスパイ容疑で逮捕され、今年2月釈放された。「私はスパイ容疑で抑留された直後、ズボンのベルトを首に巻いて死のうとした。日本国に迷惑を掛けてはいけないという思いからだった。が、私が日本で公安関係者に提供した情報が北朝鮮側に筒抜けになっていたことを知り、自ら命を絶つことも、黙秘することもやめた」。
日本の公安関係者が国民から提供された情報を相手国に筒抜けにするという、何とも言いようのない状況の指摘である。国民を守る立場の公安関係者がその国民を危険に陥れるようなことをする。政府は何のために存在するのか、もう一度原点に戻って考え直してもらいたくなる。考えてみれば、国民の安全確保という原点を忘れた、この公安関係者の意識は彼らだけの特異なものではない。国民が拉致されていることを知りながら、何の手も打たなかった政府、警察、政党など、すべてに共通するものと言わざるをえない。
●朝鮮半島情勢に現れていた拉致の前兆
拉致事件は、1977〜78年と1980〜83年の2つの期間に集中している。このほかにも、まだはっきりしない事件が多数あるが、この発生件数の集中が当時の朝鮮半島の状況を反映したものであることは疑問の余地がない。
1960年代後半、北朝鮮はいわゆる武力南進の方針を推し進め、ゲリラを韓国に進入させる。68年の韓国大統領官邸襲撃では、31人の特殊部隊が38度戦を越えて侵入、ソウルの大統領官邸にあと2キロまで迫った。また、東海岸一帯にはゲリラ部隊が侵入し、韓国軍と激しい戦闘を展開する。一方、ソウルなど主要都市には多数の政治工作員が潜入して反政府活動を組織した。
この頃は、38度線や東海岸から直接侵入する例がほとんどだった。これに対し、当時の朴正熙政権は韓国全土で警備態勢を固める。38度線の南には鉄条網と地雷原、要所にコンクリートで高い防壁を築いた。また、海岸を立ち入り禁止とし、軍と住民が民間防衛隊を組織して交代でパトロールする。ゴルフ場は夜になると数メートル間隔で鉄線を張り、飛行機の着陸を防ぐ工夫をした。
これと並行して、国民の生活も戦時態勢になった。夜は外出禁止、自宅は外部に光がもれないように灯火管制、国民ひとり一人が写真と指紋入りの身分証明書を携帯、買い物や映画館の入場にも提示を義務づけた。そして、週1回敵の攻撃を想定した避難訓練を実施し、国民全員の参加を義務付けた。こうして、ゲリラや工作員が潜入しても活動できないようにすることを狙ったのだ。
日本ではこのきびしい警戒態勢を朴正熙政権の強権政策と批判的にみた。だが、70年代になると、北朝鮮工作員が38度線や海岸から侵入する例は次第に少なくなり、代わって日本経由で、日本人になりすまして入国する例が増える。韓国の警戒態勢が効果をあげる一方で、無防備な日本が狙われたのだ。それを示すのが、1974年8月15日に起きた朴大統領狙撃事件である。その後の拉致事件につながる数々の動きがこの事件の背後ですでに起きていた。
●狙撃事件が示唆した日本の工作基地化
8月15日、日本は終戦記念日だが、韓国は独立を回復した光復節だ。政府は毎年記念式典を催し、大統領が正午に全国向けの演説をする。この日も、朴正煕大統領が演説中、在日韓国人青年の文世光がピストルを構えて演壇に突進し、大統領を狙撃。弾はそれて演壇脇の大統領夫人が犠牲になった。
韓国警察の発表によれば、文世光は大阪で北朝鮮の工作員に誘われ、反韓国活動のグループに入った。そして、大阪府警高津派出所でピストルを盗み、複数の工作員の指導で射撃やゲリラ訓練をし、日本人のパスポートを使ってソウルに来た。この彼の自供に基づいて、韓国警察は日本が北朝鮮の対南工作の拠点になり、それに朝鮮総連が関係しているとの調査結果をまとめる。
そして、韓国政府は日本政府に対して、朝鮮総連の活動規制、工作員の出入国監視の徹底などを要求した。しかし、当時の田中角栄内閣は狙撃事件に日本警察のピストルが使われたことを謝罪したものの、朝鮮総連や工作員の規制は日本の国内法に基づいて処置すると回答し、明確な姿勢を示さなかった。
国内では、北朝鮮と友好関係にある革新陣営が規制に強く反対した。田中首相も、自民党実力者の福田、三木両首相候補が政権から離脱して指導力を失い、反対を押し切って朝鮮総連を規制する政治力はなかった。
一方、日本の警察は、文世光がピストルを盗み、日本人のパスポートを不正に使って出国したことを捜査で裏付けた。さらに捜査を進めるには、韓国政府に対して文世光を直接取り調べる要求を出す必要があった。
しかし、日本政府はそれをしない。事件から4ヵ月後の12月、韓国は文世光を処刑した。日本が北朝鮮工作員の活動を直接確認する機会は失われ、対策もたてられなかった。
●マスコミが看過した最初の重大な拉致事件
警察が確認している最初の拉致事件は、朴大統領狙撃事件から3年後の1977年9月19日に起きる。三鷹市役所警備員久米裕さん(当時52)が石川県能都町の海岸からボートで拉致された。警察は久米さんと旅館に同宿した在日朝鮮人男性を逮捕。男性の自宅から乱数表、暗号解読表などを押収。その男性は北朝鮮から「45〜50歳の独身男性の拉致を指示された」と自供した。
しかし、警察は男性を起訴せずに釈放する。被害者久米さんの被害届や供述がなく、公判を維持できないという理由だった。地元ではうわさが立ったものの、大きな関心を集めなかったという。新聞は2ヵ月ほどして「久米さんが工作船で北朝鮮に運ばれた」という趣旨の記事を出しただけだった。
事件はその後も連続し、1977〜78年に警察が認定しているだけでも9人が拉致された。いずれも地元の関係者以外は関心を持たず、マスメディアも取り上げない。ただ、証拠となる材料は増えている。
78年8月15日、富山県小杉町で起きたアベック男女拉致未遂事件では、ゴム製のさるぐつわ、手錠、布袋が現場に残されていた。犯人は4人の男で、彼らが話す日本語は明らかに外国人の発音だったという。
警察の調べでは、これら証拠品のうちさるぐつわに使われたゴムは国内の製品ではないことがわかった。この未遂事件の前1ヶ月余りの間に、新潟県柏崎市、福井県小浜市、鹿児島県吹上浜など3カ所で、2人連れの男女3組が拉致されていた。しかし、この一連の事件に関連があることを地元警察が気づき、市民が沿岸警備に協力する態勢を組織するのはなんと10年後のことである。
●頻発した拉致事件,それなのに対応が遅れたのはなぜなのか
韓国の厳重な警戒態勢にくらべ、日本はほとんど何の対策もとらなかった。皆無にひとしい。しかし、日本が北朝鮮の工作基地に利用されていることは半ば公然の事実だった。
毎晩、短波で不思議な放送が流れることはラジオを聞く多くの人が気づいていた。外国語の数字が繰り返し流される。このことばが朝鮮語であることは容易に想像できたのだ。警察庁も郵政省電波管理局ももちろん知っていた。
最初の拉致と記録されている久米裕さんの場合、逮捕された在日朝鮮人は乱数表と暗号解読表を自宅に隠していた。これらの証拠と放送の内容を照合すれば、事件の背景に何があり、どこから拉致の命令が出たかわかったはずだ。
しかし、警察庁はそのような捜査をしたのかどうかも公表しない。電波管理局も怪しい電波を規制しない。冷戦時代、自由陣営と共産陣営はお互いに相手側の宣伝放送に妨害電波を出した。しかし、日本は工作員向けの電波と知りながら放置したのだ。
海上保安庁は最近の不審船には目を光らせるようになったが、当時の工作船の侵入は警戒の主な対象ではなかった。一方、外務省も工作員が日本人のパスポートを不正使用しているのを知りながら何の対策もとらなかった。発給したパスポートの追跡調査くらいはできたはずなのにである。
●拉致を放置した責任は政党と政治とマスコミにある
安倍官房副長官は10月19日の講演で、民主党の菅直人前幹事長、社民党の土井たか子党首を「間抜けな議員」と批判した。理由は、韓国が1985年北朝鮮工作員辛光洙に死刑判決を言い渡したのに対し、両議員が釈放の嘆願をしたためである。
辛は80年6月17日、大阪の原敕晃さん(当時43歳)を拉致し、5年後に原さん名義のパスポートで韓国に潜入して逮捕され、拉致も自供した。
菅前幹事長、土井党首がこの嘆願書に署名したのは死刑判決確定から4年後の1989年だという。
菅前幹事長はインターネットのウェブサイトで、「辛容疑者が含まれた政治犯釈放の要望書に名を連ねていたとすれば私の不注意。おわびをしたい」と述べている。また、社民党は,安倍氏の発言に対し,衆院議員運営委員会で、自民党に対して「公党の党首に対して由々しき発言であり、謹んでいただきたい」と主張した。
この両議員の反応には原さんという日本国民が拉致されたことに対する責任がまったく感じられない。議員は国家の目的を遂行するため国民から選ばれている。一方、原さんの拉致はその国家の目的の一つ、国民の安全が守れなかった例だ。
両議員が辛死刑囚の釈放嘆願をしたことは、その責任を認識せず、逆に日本国民の安全を犯した辛死刑囚に組したことを意味する。不注意ではすまされない行動である。
この両議員の行動はかつての日本の革新陣営の政治家と政党の拉致事件についての認識をよく示している。1989年当時、両議員が所属した革新陣営は北朝鮮との友好を重視、韓国には距離を置いていた。
冷戦時代から日本国内に強く根付いた政治状況だ。この陣営にとって、拉致事件などありえないことであり、辛死刑囚が韓国警察に原さんの拉致を自供しても、それを信じることができなかったのだ。
菅前幹事長がインターネットの釈明で、「辛容疑者が含まれた政治犯釈放の嘆願書に名を連ねていたとすれば私の不用意」と述べているのは、革新陣営のいわば「皆で渡れば怖くない」的な動きに菅氏が深い考えもなく便乗したことを正直に告白たものと受け取れる。政治家としてはこれも無責任と言うほかないだろう。
●もっと拉致疑惑を政治問題化していたら事件の幾つかは防げたはず!
阿部官房副長官は10月25日、衆院議員運営委員会の理事会で間抜け議員と発言したことを「不適切だった」と釈明、民主党と社民党が了解して決着した。日本の国会運営の典型的なパターンだ。野党が噛み付けば、たとえ正しいと思っていても引き下がるのだ。
重要法案を会期中に成立させるための妥協である。この日本の政治パターンが安全保障問題の議論を敬遠する風潮をつくった。野党を刺激するからだ。そして、拉致を安全保障の問題として真剣に取り組まない結果を招いたのだと思う。
日本は憲法で軍備を否定し、国の安全は平和的手段で達成すると誓っている。戦後、幸いなことに日本を軍事力で攻撃する国はなかった。しかし、北朝鮮の対南工作の拠点となり、日本国民が拉致されている。国民の安全は保障されていないのだ。日本はこのギャップに早く気づくべきだった。
政府が拉致を正式に認めるのは1988年3月、参院予算委員会で共産党の橋本敦議員の質問に対し、当時の梶山国家公安委員長が「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」と答弁した時だ。
久米裕さんの事件から11年後である。警察は公安事件として一連の事件を捜査していたが、それまで公表はしなかった。北朝鮮と友好関係にある革新陣営の存在が公表を控えさせたとみてよい。その間、対策をたてることもなかった。また自民党にも北朝鮮との友好を積極的に推進する金丸派(野中幹事長)の影響力があったことが,事件の公開を隠蔽する方向に働いた。
もし、日本が1974年の在日韓国人による朴大統領狙撃事件の時から事態の重要性に気づき、対策をたて、マスメディアがそれを大々的に報道していれば、その後の展開はまったく違っていたでだろう。国民が恐怖心と警戒心を持つこともできたはずである。その結果、事件の幾つかは防止しえたと思えるのだ。
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