女の世紀を旅する
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2002年07月27日(土) 忘れられない戦争映画の傑作「キリング=フィールド 」

忘れられない戦争映画「キリング=フィールド」      1984,U.S.A./140mins
   監督 ローランド=ジョフィ   
出演 サム=ウォーターストーン/ハイン=S.ニョール

「これは戦争と友情、荒廃した国土の呻吟の声、そして一人の男の飽くなき生への執着を描いた物語である。」(記者シドニー=シャンバーグ)






●ドキュメンタリータッチの戦争映画の傑作.音楽も効果的

 数々の戦争映画を観たが,この映画はその中でも白眉の傑作ではなかろうか。
 ニューヨークタイムズ記者としてカンボジア内戦の混乱をルポし、ピューリッツァー賞を受賞したシドニー=シャンバーグの実体験を、デビットパットナムが企画し、監督ローランド=ジョフィが見事に映像化した。 カンボジア人の通訳兼ガイド、ディス=プランを演じたハイン=S.ニョールはプロの俳優ではなく、元医者で、彼自身、クメール=ルージュの支配下、映画に描かれている以上の悲惨な体験をしてきたという。しかし、彼は1996年2月25日、ロサンゼルスの自宅前で何者かに銃撃され亡くなった。一説にはポル=ポト派による犯行ともいわれているが定かではない。この映画は、1984年度アカデミー賞助演男優賞にも輝いた彼の熱演によるところがとても大きかっただけに,その死は悼まれる。

 この映画に生々しく描かれるカンボジアの共産主義ポル=ポト政権(クメール=ルージュ)の下放政策(都市の市民を農村に開拓団として駆り立てる政策)は,実は毛沢東が推進した文化大革命の時の政策で,ポルポトはそれを踏襲した。その結果,200〜300万人ともいわれる大量虐殺が実施されたが、映画でも描かれていたようにポルポト派が10代の少年少女たちを使って大人たちを殺害したのは,文化大革命の時に動員された紅衛兵のマネをしたのであった。映画でも子供たちが大人たちを撲殺するシーンが描かれていたが,共産主義というイデオロギーのもとにどれだけ多くの市民が殺されていったか,まさに政治的狂気の犠牲としかいいようがない。

 2年前、毛沢東主義を奉じたポル=ポトはついに隠れていたジャングルから引き出され、裁かれる前に病死したが,よくぞ生きながらえたものである。

 ポルポト派のホロコースト(大殺戮)を赤裸々に告発したこの映画は出来栄えも素晴らしく,スピールバークの映画「シンドラのリスト」と並ぶ戦争映画の傑作と言える。映画最後の再会のシーンで、どこからともなくジョン=レノン「イマジン」が流れててくるが,製作者のパットナム自身の意図した通り、あのシーンにこの曲は観る者の心をゆさぶる。それに加えて,エンディングで流れた悲哀に満ちた名曲「アルハンブラの思い出」が圧巻で,そのカンボジア打楽器で演奏されたこの曲は映画音楽に残る傑作といっても過言ではない。
 
 音楽の選曲とその効果的な使われ方ではスピルバーク監督も巧みで,ノルマンディー上陸作戦を描いた戦争映画「プラベートライアン」(トムハンクス主演)の最後の戦闘場面でアメリカ兵たちがラジオから流れてくるフランスのシャンソン(歌はエデットビアフ)を聴きいっている時,その曲にのせてドイツのタイガー戦車のキャタビラの音がせまってくるシーンなども実に印象的であった。




●映画「キリングヒフィールド」で描かれたポルポト派の台頭の背景.

  1949年にシアヌークを元首としてフランスからの独立を宣言したカンボジアは,インドシナ戦争が終結した54年のジュネーヴ休戦協定で事実上の独立を達成した。1970年3月、王政社会主義を推進するシアヌーク元首の訪ソの隙に乗じて、親米派の軍人ロン=ノルがクーデタをおこし,軍事政権を樹立した。折からの泥沼化したベトナム戦争の活路を模索するアメリカはこれをチャンスと見て、ロン=ノル政権を支援すべくカンボジアに派兵した。これに対し、シアヌークは中国の北京に亡命し,祖国の解放闘争を指導して、激しい内戦が展開された。1975年4月17日、ポル=ポト率いる共産主義勢力、赤いクメール(クメール=ルージュ)はロン=ノル政権を倒し、民主カンプチア政府の樹立を宣言した。しかし、プノンペン解放後、ポル=ポト政権は、極端な共産主義政策を押し進め、プノンペンなど都市市民の農村への強制移住や大量虐殺を行った。カンボジアはまさに“killing fields”(虐殺の野)と化したのである。

この映画は,1973年8月、ニューヨークタイムズの敏腕記者、シドニー=シャンバーグが特派員としてカンボジアに派遣され,折しも、アメリカを後ろ盾としたロン=ノル政権と、反米を旗印に掲げた革命派勢力、クメール=ルージュとの闘いがいよいよ表面化し,彼を出迎えた通訳兼ガイド、ディス=プランのその後の地獄の体験をベースにしている。1975年、いよいよクメール=ルージュが首都プノンペンに迫り、ロン=ノル政府軍は敗退を続けていた。記者シャンバーグは、プランに家族とともにアメリカに脱出するよう勧めるが、結局妻と4人の子だけを見送り、プランは彼のもとにとどまった。

 1975年4月、ロン=ノル政権はついに崩壊し,病院を取材したシャンバーグとプランら4人は、帰途クメール=ルージュの兵士たちに捕まってしまう。しかし、プランが、機転をきかせて3人ともフランス国籍のジャーナリストであると偽ったおかげで、すんでのところで死刑を免れ釈放される。その後,4人は最後の避難所であるフランス大使館に逃げ込む。シャンバーグらは、プランのバスポートを偽造して一緒に脱出しようとするが、写真がうまく焼き付かず、失敗する。プランだけが大使館外に出され、降りしきる雨の中、プランは泣きながら去っていく。

タイとの国境を越えて、無事ニューヨークに帰ったシャンバーグは、プランの身の上を案じていた。彼はカンボジアで見たことを書き、ピューリッツァー賞受賞という名誉にも輝く。しかし、それもみなプランのおかげなのだ。彼は、必死になってプランの行方を探すが、遠いアメリカではいかんともしがたかった。サンフランシスコに住むプランの家族にも一切連絡はないという。

その頃プランは、クメール=ルージュの監視下、強制労働に従事していた。毎日たくさんの人々が殺され、更に多くの人々が飢えと病のために死んでいた。クメール=ルージュはとくに学校の教師,記者,芸術家など知識人・文化人に対してはその粛清を図っていたため、プランは、外国語を話せることや、ジャーナリストだったことなど、ひたすら隠していた。当時は子どもが親を密告するような異常な状態であった。クメール=ルージュの管理する村では、一切の知識に毒されていない無垢な子どもたちこそ、革命をになうリーダーだった。

 ある時、プランはひそかに牛の血を吸っているところを見つかってしまった。炎天下に放置された彼のもとに一人の少年がやってきて、「ベンツ、ナンバーワン」と言いながら縄を切ってくれた。その少年は、かつてプランがベンツのエンブレムをプレゼントした少年だった。辛くも脱出したプランは、累々と屍が連なる“killing fields”をさまよい、さまざまな苦労を経て、ようやく国境を越えてタイの難民キャンプにたどり着く。それは1979年秋のことだった。シャンバーグはついにプランの消息をつかみ、キャンプ地を訪れる。

 4年ぶりの再会,抱擁。功なり名とげたアメリカ人記者と、苦闘と死の恐怖にさいなまれたカンボジア人のプラン。“Forgive me”とアメリカ人記者。“Nothing to forgive you, nothing”と笑って首を振るプラン。心に残るシーンてある。

 このカンボジア内戦とポルポト派の殺戮を赤裸々に描いた映画が世界に与えた衝撃は実に大きかった。書物を読み,想像で理解するよりも映像の方が真実を直裁的に知らしめてくれる。この映画でカンボジアの悲劇の実相を知った人が多かったのはそのためだ。



カルメンチャキ |MAIL

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