女の世紀を旅する
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2002年04月04日(木) |
世界の名著《 年をとる技術 1 》(アンドレ=モロア) |
古典的名著 《年をとる技術 1》 著者アンドレ=モロア
(フランスの歴史家.文芸評論家) 『人生をよりよく生きる技術』から.講談社学術文庫 (中山真彦訳)
誰だって老いていく。老いていくことに恐怖さえ覚えることがある.しかし,人生も宇宙も刻々と変化し,知らないうちに老いを迎えることになる.ある日突然,その現実を知って戸惑い,戦慄が走る.では,どうやって老いと折り合いをつけ,快適な老いの生活を送ることができるのか.かけがえのない人生,誰だってみじめな老後を過ごしたくない.
世界の名著の中にその答えを探してみた.深く洞察してもらいたい.
● 「老いていかにあるべきかを知るものは少ない」(ラ=ロシュフーコー)
年をとるということは、不思議なことである。あまりに不思議なので、ほかの人と同じく自分もまた老人になるのだとは、なかなか信じられないのである。
プルーストは『失われし時を求めて』の中で、お互い青年だったときに知り合った一群の男女と、三,四十年をへだてて突然再会した時の驚きの気持ちを、見事に書きあらわしている。「人生の入口で彼を知った私にとって、彼は昔のままの彼だった。
なるほど、彼がもう年相応に見えるということは、風のたよりにも聞いていた。だが実際に彼の顔の上に、老人のあのあからさまなしるしを幾つか認めた時、私は本当に驚いてしまった。しかし私は納得したのだ。それは彼が実際に老人だからだということを。長いあいだ青年のままでいた人間も、やがて老人にならなければならないということを。」
そうなのだ。自分と同年輩の男女の上に時の作用を読み取ってはじめて、「あたかも鏡の中」をのぞくかのように、われわれ自身の顔や心に生じているものを知るのだ。なぜなら、われわれの目もまた時間の流れにそって移動しているものだから、自分がまだ青年のすがたをしている気でいるし、心の中にも青年のはにかみや夢が残っている。若い人たちが、われわれをどの年の世代の中において見ているかを、想像してみようとはしないのである。
ときおり、どきりとするような言葉を聞く。ある娘さんのことを噂して、「馬鹿だよ、あの娘は、年寄りなんかと結婚しちゃって。55歳で、頭はもう真っ白だぜ」と人々がいうのを耳にする。すると、ああ自分もまた55歳だ、と思うのだ。頭は白く、ただ心だけが年をとりたがらずに。
●《影の一線を越える》
老年はいったいいつから始まるのか。長い間、われわれは年なんかとらない気でいる。心はいぜんとして軽やかだし、力も昔のままだと思っている。 青年から老年への移行は、とてもゆるやかなものであるから、変わっていく当人がほとんど変化に気がつかない。秋が夏に続き、そして冬が秋に続くのも、やはりごくゆっくりと移り変わるので、一つ一つの変わり目は、日常目にとまらない。ところが秋は、マクベスを包囲した軍勢のように、夏の木の葉に身を隠しながら、そっと前進しているのだ。そして11月のある朝、突然風が巻き起こる。すると、黄金の仮面が引きはがされ、そのあとに、骸骨のようにやせ細った冬が顔を突き出すのだ。まだ若わかしい緑色をしていると思っていた木の葉が、もうすっかり枯れてしまって、何本かの細い筋だけで枝にぶら下がっている。突然の嵐は、冬をつげた。だが、それが冬をつくりだしたのでない。
病気は、人間という森を襲う突然の嵐だ。年のわりにまだ若い男女がいる。その活動力、その頭の回転の速さ、その生き生きとした話し方に感嘆する。ところが、若い人ならばせいぜい風邪か頭痛ですむ程度のちょっとした無茶をしたその翌日、肺炎あるいは脳溢血という嵐が、彼らをおそうのである。そして数日のうちに、顔がしわだらけになったり、背中が曲がり、目の光りが消える。われわれはたった一瞬のうちに老人になるのだ。でもそれは、そうとは気づかず、そうとは知らぬまに、もうずっと前から老化しつつあったからにほかならない。
人間にとってこの秋の季節はいつから始まるのか? コンラッドにいわせれば、40歳をこすやいなや、「人はだれでも目の前に細長い影が一本横たわっているのに気づく。そしてそれを横切る時、冷たい戦慄を感じ、自分はもう青年の魅惑の世界を去りつつあるのだとつくづく考えるのである。」今日この細長い影の線を引くとしたら、むしろ50歳前後のころであろう。だからといって影の線がなくなるわけでない。そしてそれを横切る時、どんなに元気溌剌として丈夫な人でも、コンラッドが語っていた冷たい視線をかすかに感じ、たとえつかの間であれ、絶望感に襲われるのである。
「私はやがて50歳になる」とスタンダールは、なんとズボンのバンドの上に書きつけた。そして同じ日に、かつて愛した女性たちの名前を、丹念に書き並べる。この世のだれにもまして、女性を結晶作用のダイヤモンドで飾ることの出来た彼であったが、しかし、思ってみればかなり平凡な女たちだった。20歳の彼は、自分の恋愛生活には素晴らしい出会いがあるに違いないと空想していた。そして彼は、恋の機微を知る心といい、愛を大事にする気持ちといい、そのような出会いに値する男だった。しかるに、彼が愛することを望んだ女性たちはついに現れなかった。
老いとは、髪が白くなったりしわがふえたりすること以上に、もう遅すぎる、勝負は終わってしまった、舞台はすっかり次の世代に移った、といった気持ちになることである。老化にともなう一番悪いことは、肉体が衰えることではなく、精神が無関心になることだ。細長い影の線をあとに消えていくもの、それは行動の能力ではなく、行動の意志である。青春時代の、あの旺盛な好奇心、ものごとを知り理解したいというあの欲求、新しい世界を知るたびに胸をふくらませたあの広大な希望、夢中で恋をする情熱、美には必ず知と善がともなうというあの確信、理性の力に対するあの信頼、そういったものを、50年間様々な体験と失意を重ねたあとでも、なお持ち続けることは出来るだろうか?
影の一線をこえると、人は柔らかい穏やかな光りの地帯に入る。欲望の強い日光に目がくらむこともなくなるので、人や物がありのままの姿に見える。美しい女は心も立派であると、どうして信じることができよう。女のひとりを恋してみたではないか。世の中は進歩するのだと、どうして信じることができよう。多難だった生涯を通して、いかに急激な変化も決して人間性を変えることは出来ないこと、ただ昔からの習慣や、古びた儀式だけが、人類の文明をかろうじて守っていることを、つくづく思い知らされてきたではないか。「それが一体何のためになる? 」と老人は考える。そしてこの言葉が、恐らく老人にとって一番危険なのだ。なぜなら、「がんばってみたって何になる」といった人は、ある日、「家の外に出て何になる」と言い出すだろうし、そして次には「部屋の外に出て何になろう」「ベッドの外に出て何になろう」というようになるからだ。最後は、「生きていて何になろう」であり、この言葉を合図に、死が門を開く。
ゆえに年をとる技術とは、何かの希望を保つ技術のことであろうと、見当がつくのである。
次回に続く
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