女の世紀を旅する
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2002年03月24日(日) 北朝鮮の悲劇(5)  日本人拉致事件の真相

北朝鮮の悲劇(5) 日本人拉致事件の真相
                     2002年〈平成14〉3月24日





●よど号で北朝鮮に渡った赤軍派9名の数奇な運命

今から32年前の出来事である。1970(昭和45)年4月3日、夜7時20分、ボーイング727、日航機「よど号」がまったく灯りのない空港に着陸すると、サーチライトに照らされ、多数の武装した軍服姿の男たちに取り囲こまれた。場所は北朝鮮の首都平壌(ピョンヤン)の美林(ミリム)空港。

よど号をハイジャックした9名の赤軍派学生が機体後部の備え付けタラップから降り立ったが,外は凍てつくように寒かった。よど号犯たちは武装解除され、バスに乗せられた。ほとんど灯りも人影もない暗闇の街をバスは走り抜けた。

バスは北朝鮮では最高級の外国人用の平壌ホテルに着くと、9人は北朝鮮政府の係官から、すぐに取り調べを受けた。「なんのためにわが国にやってきたのか。」と質問された。

「われわれは軍事訓練を受けるために来たのです」とリーダーの田宮高麿(当時27歳,のち病死)が答え、とうとうと世界革命論をぶった。係官は途中で、もう分かった、と制止し、よど号犯たちをレストランに連れて行った。そこにはビールや朝鮮料理のフルコースが準備されていた。それは彼らが四半世紀を過ごすことになる闇の国家への歓迎パーティだった。





●「領導芸術」という名の洗脳技術

よど号犯らは平壌郊外の豪華な「招待所」に収容された。松林に囲まれた平屋建ての建物で、居間にはシャンデリア、集会室や映写室の設備まである。しかし、希望した軍事訓練はなく、金日成の論文をテキストに、北朝鮮で唯一正統と認められている「主体(チュチェ)思想」の講義と討論が連日、続けられた。討論では教授が正解とする結論はあらかじめ決まっており、それに至るまでは何度でも同じ学習が繰り返される。たとえば、一人がサッカーで誤ってボールではなく、相手の足を蹴って負傷させた時は「ボールを蹴るつもりが、、」と反省しては間違いで、「同志のことを念頭におかずに蹴ったことは、同志愛が思想化されていなかった証拠」と自己批判しなければならない。

正解にたどり着くまで、何度でも講義と討論が繰り返されると、いつのまにか、自らの選択で正解を見いだしたように信じ込む。これが「領導芸術」という高度な洗脳技術であった。

約2年の「学習」の後、1972年の正月には金日成(キムイルソン)への手紙を出すことを許され、「日本革命のために、いつでも生命を投げ出しうる革命家へと自らを打ち鍛えていくため、(金日成)首相同志と朝鮮労働党の闘いを最高の手本として、、」と決意を述べた。金日成の後継者の金正日(キムジョンイル)を最高責任者とする特別課が朝鮮労働党の中に組織され、よど号犯を操って対日工作を担当することとなった。





●スケープゴートにされた吉田金太郎

しかし、全員が無事にこの段階に達した訳ではない。吉田金太郎(亡命当時20歳)は、メンバーの中でただ一人学生ではなく、高卒で造船所に就職したペンキ塗り労働者で、組合活動から左翼運動に入っていった人物だった。そしてその祖父は戦前、神戸で裕福な商人だった。

ブルジョワ階級出身で労働者に身をやつした人間が一人だけいる。「族譜(ゾッポ)」を重んじる朝鮮の指導員たちには、これは明らかに不審なことだった。「何らかの意図」をもってよど号犯グ
ループに紛れ込んだのではないか。「相互批判」の過程で、この点をつかれると、吉田は答えられなかった。
ある日、吉田金太郎は突然、姿を消した。急性の肝臓病で入院し、そこで死亡したものとされた。それ以降、彼の存在はグループの中でも触れてはならない禁忌とされた。吉田がスケープゴートにされてから、メンバーは雪崩をうって金日成賛美に身を投じていった。





●「結婚作戦」と,「日本革命村」の形成

よど号犯たちの人間改造、思想改造を完成させるための最終ステップが「結婚作戦」だった。日本人女性を連れてきて、結婚させ、子供を作らせる。妻たちには女性にしかできない任務をさせ、子供たちは人質として、次世代の革命戦士として育てられるのである。

1976年から翌年にかけて、日本で選抜された花嫁たちが北朝鮮に送られた。主体思想研究会や朝鮮文化研究会の女性メンバー、在日朝鮮人を父に持つ娘などであった。彼女らは北朝鮮の見学や旅行と称して欺かれて連れてこられた。「結婚作戦」が真の狙いだと知ったときには、もはや後の祭りであった。よど号犯たちの花嫁となることを「主体」的に選択するしかなかった。選択肢は一つだけなのである。ある花嫁はこんな詩まで作った。

元帥様(金日成)のふところに
はるばる訪ねてきた娘たち
今日の幸せくださった
元帥様を永遠に慕います

やがて次々と合計20人の子供が生まれた。招待所は、料理人、医師、看護婦、保育所スタッフも含め100人ほどの「日本革命村」が完成した。




●1980年にマドリッドで拉致された二人の日本人青年

よど号犯が金日成の戦士として生まれ変わって、ようやく秘密工作が開始された。最初の工作はヨーロッパを旅行している日本人を拉致して、同志を増やしていくことだった。

1980年4月、「よど号」犯の妻、森順子と黒田佐喜子はスペインのマドリッドのアパートに住み、スペイン語の学校に通っていた。そして日本人旅行者を招待しては手料理でもてなした。
その中に札幌市出身のIさんがいた。日大の農獣医学部食品経済学科を卒業したばかりで、スペインの酪農に興味を持っていた。もう一人はMさん。京都外国語大学の大学院生で、スペイン語を磨くために1年間の留学中であった。

5月の中旬、IさんとMさんは、女性たちに誘われて4人でウィーンへの旅にでかけた。彼らの消息はそこで途絶えた。日本の家族は現地の日本大使館に調査を依頼し、マドリッド市警も捜査にあたったが、なんの手がかりも得られなかった。

それから8年も経って、Iさんからの便りがポーランドから札幌の家族に届いた。Iさんが手紙を小さく折り畳んで、北朝鮮ですれ違ったポーランド人に手渡したものらしい。手紙を受け取った人物は、ポーランドに帰ってからエアメールとして投 函してくれたようだ。

手紙には、Mさん、有本恵子さんと3人で助け合って、平壌でなんとか暮らしている、と書かれていた。




●1983年にロンドンで拉致された有本恵子さん

この有本恵子さんとは、83年6月、ロンドン留学中に拉致された女性である。
Iさん、Mさんは招待所に連れて行かれて、拉致された事実を知るや、Mさんは森順子を「色じかけで騙しやがって」と平手打ちにした。駆けつけた「よど号」犯たちがMさんを殴り倒し、部屋に監禁した。

反抗的なMさんの思想改造は遅々として進まなかった。「よど号」犯の妻たちは、「男だけだからうまくいかないのであり、女も連れてくればいい」と提案して、新たに日本人女性の拉致が計画された。その犠牲者が有本恵子さんだった。

よど号犯の妻たちの一人、八尾恵がロンドンの英語学校で知り合った有本恵子さんに市場調査のアルバイトを紹介すると騙して、デンマークのコペンハーゲンに連れ出し、「よど号」犯の一人安部公博を紹介。安部が「北朝鮮で市場調査の仕事をしてほしい」と言って引き合わせてウツノミヤ・オサムと称する貿易会社員(実は、北朝鮮の外交官キム=ユーチョル)に連れられて、有本さんはモス
クワに向かった。
有本さんが友人に出したロンドンからの最後の手紙には、次のような一節があった。

「でも何だかラッキーだったなぁー、こんな簡単に仕事が見つかるなんて思ってもいなかったし、外国で仕事ができるなんて、今、すごくうれしい気分です。・・・」

当時、北欧諸国では北朝鮮外交官が免税特権を悪用して煙草や酒、貴金属などを免税で買っては転売して利ざやを稼ぐ大使館ぐるみの犯罪を行っており、ユーチョルもデンマーク警察に監視されていて、有本さんと一緒の写真が撮られていた。



●消された二人の日本人男女

よど号犯の一人、岡本武はウィーンで国際的な反核運動を盛り上げる工作をしていたが、それが日本の市民運動にもつながったのに自信を持ち、もっと積極的に日本国内に潜入して、活動すべきだと考えた。しかしリーダーの田宮はそれを許さず、かえってグループ内の「総括」で岡本をつるし上げた。
酒でうっぷんを晴らしていた岡本は、ある日、メンバーの一人と喧嘩をしたため、ロープに縛られて床に転がされた。高知県から拉致されてきた岡本の妻・福留貴美子が抗議すると、彼女もロープで縛られた。北朝鮮では、糾弾されている人間を擁護することは、自らの政治生命を断つことである。

岡本夫妻は海に近い別の「招待所」に移され、そこで再度の思想教育を受けた。まだ5,6歳の二人の子供はよど号犯たちの元に残された。ある日、岡本は海岸で漁船を奪って、海上脱出を図ろうとしたが、あっけなく巡視艇に捕まってしまった。1980年代中頃のことである。

この事件のあと、岡本夫妻の消息はぷっつり途絶えた。政治犯収容所に移され、強制労働をさせられていたのである。1988年頃、二人は作業中に、土砂崩れにあって死亡した、という知らせが田宮高麿リーダーのもとにもたらされた。要するに岡本武と福留貴美子は殺害されたのである。




●日本に潜入した柴田泰弘の逮捕

1985(昭和60)年春、よど号犯の一人、柴田泰弘が日本に降り立った。10数年前に北朝鮮に渡った中尾晃という人物になりすまし、その印鑑や戸籍謄本、健康保険証も持っていた。この結果,国内でも大手を振って仕事ができることとなった。柴田は高校生の進路指導の仕事を始めて、多くの高校生の住所、氏名のリストを入手した。さらに、身よりのない子供たちの養護施設へのボランティア活動にも関与した。将来の革命戦士を見つけ、育てていく為の下準備に余念がなかった。

しかし、1988(昭和63)年5月6日、柴田は兵庫県警に逮捕された。偽造旅券で何度も入出国を繰り返していたので、北朝鮮工作員ではないか、との疑惑がもたれていたのである。指紋照合の結果、よど号犯の一員であることが明らかになった。北朝鮮で不自由な生活をしているであろうと思われたよど号犯の一人が、国内に潜入して秘密工作を行っていたことに公安関係者は大きな衝撃を受けた。




●八尾恵の逮捕と,彼女の告白で拉致事件の真相が判明

同年5月25日、今度は横須賀でスナックを経営していた八尾恵が神奈川県警に逮捕された。コペンハーゲンでのキム=ユーチョルと接触していた事実などから、北朝鮮工作員との疑いをかけられていた。神奈川県警はアパートの名義に偽名が使われていることを逮捕理由にしていたが、家宅捜査で工作員としての証拠が発見できる、と踏んでいたようだ。

しかし物証は何も出てこず、結局、住民票への登録が偽名だったとして罰金5万円で釈放された。八尾恵に与えられた任務は、スナック経営で日本での活動資金を作らせることだった。逮捕されても、何も知らないので実害はなく、また捜査の攪乱になると考えられていたようだ。警察が八尾逮捕の裏付け調査に奔走している間に、他の妻たちも含め、多くの工作員たちが日本を脱出した。

八尾恵は75(昭和50)に兵庫県の高校を卒業した後、化粧品会社に勤めていたが、神戸の街で無料の「朝鮮映画を見る会」に参加してから、在日朝鮮人の友人ができ、その後しばらくしてから、行方が分からなくなった。その後、北朝鮮で柴田泰弘の「妻」にさせられ、二人の子供を生んだ。しばらくヨーロッパで工作活動をした後、日本に帰国してからは休む間もなく働いて活動資金作りをさせられていたのである。子供たちを人質にされては、逃げ出す術もなかった。



●闇の国の操り師

有本恵子さんやIさん、Mさんなどは、よど号犯らによる拉致犯罪の直接被害者であるが、この八重恵やその子供たちも間接的には被害者と言えよう。加害者はハイジャックによって闇の国に渡ってしまったよど号犯らだが、真の加害者はかれらを陰で操ってきた金正日である。

人間を洗脳したり、騙したり、脅したりして好きなように利用すべきあやつり人形としか考えていない独裁者が、多くの人々の人生を台無しにしてきた。外務省の田中均アジア大洋州局長が北朝鮮を刺激しないよう拉致疑惑追求を牽制していた経緯があった。しかし,拉致された人々の人権を無視してまで、こういう「ならずもの国家」と国交正常化することに、どのような意味があるというのか理解に苦しむ。

昨年の平成13年5月によど号犯たちの成人した娘3人が帰国した。子供たちは現地の大学に通うなど金正日・独裁体制でのエリートと言われる。また9月にはよど号犯・赤木志郎の妻・金子恵美子が帰国した。旅券法違反で起訴されたが、たいした刑にはならないと読んでのことであろう。

これらの人々がこういう形で公然と帰国することは当然、操り師たる金正日の策略に沿ったものと予想される。ところで,マドリッドで拉致された例の二人の日本人男性のIさんとMさんであるが,非協力的であったため,すでに殺害(病死は言い逃れ)されている可能性が高いと言わざるをえない。

 いやはや,なぜいままで日本政府はこんな重大な事件を数年間もほって置いたのか,なぜ今頃になってようやく有本恵子さんの事件は北朝鮮が関与していると公安当局が発表したのか,対応が余りにも遅すぎるのである。


カルメンチャキ |MAIL

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