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『人生はテニスのシングルスゲームと同じで、誰かが誰かを幸福にすることなどできない。他人にしてやれることなど何もない。他人のことをわかってやるのも無理だ。他人を支配するのも無理だし、支配されることもできない。人生はシャンペンだけだと思うか? そう吉野愛子は聞いた。そうシャンペンだけだ、そう答えればよかったとテニスボーイは今思っている。シャンペンが輝ける時間の象徴だとすれば、シャンペン以外は死と同じだ。キラキラと輝いていなければ、その人は死人だ。キラキラと輝くか、輝かないか、その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、キラキラしている自分を見せてやることだけだ。キラキラする自分を示し続ける自信がない時、それは一つの関係が終わる時を意味する。』 (村上龍『テニスボーイの憂鬱』)
『テニスボーイの憂鬱』という小説は、全体的には読んでいてあまり面白くなかった。でも、上で引用した文章は好きです。面白くはなかったけど、この文章に出会えたから読んで損はなかった、と思います。共感するところがあり、それを上手く言葉にしてくれている。自分が思っていること(でも上手く言葉にはできない)を上手く言葉にしてくれている文章に出会うと嬉しいものです。 本を読む場合、読んでいるときは面白いのだけど本を閉じたらもうあとには何も残らない本と、読んでいる最中はあまり面白くないのだけど後から思い返すと何か残っているものがある本とがあります(他にもあるけどここではこの二つで話を進めます)。前者は休憩やストレス発散に役立つから必要だと思うし、また実際読むこともあるけれど、後者のように何かが後に残る本に出会えるとことこそが読書をする一番の目的な気がする(個人的に)。なぜって、前者であれば別に本でなくてもいい。疲れたときにはむしろ本を読むより負荷のかからない漫画を読むとかゲームをするとかのほうが適しているかもしれない。もっとも、後者の場合だって、別に本以外のものごとからも「何か」を得ることはできるけれど、本の特徴として「文字」に関する情報量が圧倒的だということがある。人間の思考だとかを記述するのには大量の文字が必要だ。たとえば漫画では、キャラクターの感情などを「絵」で表す。読者は絵を見ることで一瞬にして文字にすれば何行かあるいは何十行にもなる「情報」を得ることができる。文字にはできないことが上手く伝わってくることもあるし、絵を見るのは一瞬で済むから時間も節約できる。ただやはりそれで表現するのに適したことと適さないことがあって、本(漫画ではなく文字による)という表現媒体が適している方面に今の俺の興味がシフトしている、ということ。少し小難しい本を読んでインテリ気取りたがっているだけの若者、だと思われるかもしれないけど、そうではない(少なくともそれだけではない)つもりです。まあ、漫画は色々読んできたし、ゲームなんかもそうです。それらは、新鮮味を感じにくくなった、その媒体から得られることが飽和に近い状態にある(と俺が勝手に判断した)ということ、かな。でも、めっきりしなくなったゲームと違って、漫画は今でもそれなりに読んでますけどね。それは漫画がゲームに比べて時間がかからないからというのもある。興味が薄れれば当然それに注げる時間も減ります。あと漫画は立ち読み中心なので経済的(笑) まあ、漫画は休憩のための娯楽として楽しめるけど、ゲームはそれにしては時間がかかりすぎるのですね。対戦ゲームで何回か対戦するとかくらいならさほどの時間にはなりませんが、でも対戦前にある程度練習しないと面白い勝負にならない、だから練習も含めるとやはり時間がかかる。それと対戦相手が必要だから自分の自由な時間に「休憩」できるわけじゃないんですよね。まあ、友人と親睦を深めるためのツールとしての役割も対戦ゲームにはあるかもしれないですが。でもそのためにそのゲームの練習をする時間を割くのは嫌だ(笑) あ、それと、本のことですが、もちろん一番良いのは、読んでいる間も面白いし後にも何かが残る本です。ええ、それにこしたことはありません(笑)。そんな本にもっと出会いたいです。そしてそのような本よりももっと興味深い「人」にも出会いたいです。興味深い人間に出会うことは、何十冊何百冊の良書に出会うより貴重な経験になり得る。そして俺も人からそのような「興味深い人間」だと思われるような人間になりたいと思う。もちろん興味を持つ持たないは個々人の相性にもよるだろうけど。
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