月のシズク
mamico



 レシートとともに、言葉を受け取る

階段を三階までのぼると、開かれた木のドアから優しい光がもれていた。
古いお宅を訪ねた来客のように「こんにちは」と挨拶をして店の中に入る。
板の間にブーツの踵が響きすぎて、音を立てぬよう、つま先で歩いた。

アサコさんのお店で髪を切ってもらった後に、ここへ来ようと決めていた。
代官山の駅を挟んで、恵比寿方面にアサコさんのお店、アドレス方面に
このカフェがあった。駅から伸びる立体歩道橋を通るとき、夕暮れをみた。

午後6時という時間は、お茶の時間には遅すぎるし、夕食の時間には少々
早いのかもしれない。私のほかに、初老の男性がひとりしかいなかった。
洋梨のタルトと濃い珈琲を注文する。「それと、灰皿を」と言うと、店員の
女の子はふんわり笑って「はい」と良い返事をし、すぐに持ってきてくれた。
ひとの目をまっすぐ見て受け答えする姿が、とても気持ちよく感じられた。

話には聞いていたが、ずいぶんといろんな椅子を集めた店だった。
丁寧に使い古された椅子たちは、見合ったテーブルに寄せられていた。
それに、(蓋の閉まった)赤茶色のアップライト・ピアノがある。

三方が窓で、背後からは電車の音が聞こえた。私は雑多に押し込まれた
本棚から適当に一冊引き抜いて、椅子に座り、開いた。珈琲はお世辞にも
美味しいとは云えなかったが、洋梨のタルトは香ばしく、いい歯ざわりだった。

小一時間ほど本を読み、時折、本棚に積まれた本を物色する。
私が席を立つ頃には、初老の紳士の姿は既になく、新しい客もいなかった。
レジに立ち、「ごちそうさま」と、さきほどの女の子に代金を渡す。

「本とか、お好きなんですか」
お釣とレシートを差し出して、彼女は私に訊いた。
「ずいぶん熱心に本棚をのぞいてらしたから」
目元にかわいらしい笑みをたたえながら、まっすぐ私を見て言った。
「本とか? ええ、好きですね」
ほのかに笑いを含んだ声で、私はこたえた。

玄関に向かう私の背後から、「またいらしてください」と声がする。
階段を降りながら、本棚の中に、以前連載させてもらった薄っぺらい
冊子があるんですよ、と、云うつもりのなかった言葉を、心にしまった。


 >> eau cafe at 18:40

2003年10月10日(金)
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