月のシズク
mamico



 音がなくても、聞こえるもの

ホテルのロビーの喫煙所に設置されたソファには、先客が座っていた。
女性が三人と男性がひとり。ロゴTシャツを着た女性がいたから、彼らも
先ほどのライブの観客だったのだろう。ソファにぐったり身を沈めている。

座る場所を占拠されていたので、私は立ったまま煙草を箱から取り出し、
火をつけた。フロントでは、ライブの興奮を纏った女性客がはしゃいだ声を
あげながら自動ドアを通り、鍵を受け取ってエレベーターホールへと消えてゆく。
外は雨で、コンクリートに雨粒が激しく叩きつけられていた。

ガラスに青白い煙が映り、それとなく視線を動かすと、Tシャツの女性の手が動いた。
その動きに応ずるかのように、男性の手も動く。ほかのふたりの女性が笑顔を
作った。ああ、手で喋っているのか、と私は彼らの優雅でキレのよい会話を
盗み見る。もちろん、内容まではわからないけれど。

女性のひとりが煙草に火をつけたので、私は、贔屓のメンバーの缶バッチを付けた
彼女の鞄をこつこつと叩いた。笑顔を纏ったままの彼女の視線が、私を見上げる。

「いい写真ですね。彼のファンなんですか?」
サムアップ・ジェスチャーをまじえ、なるだけゆっくり口を動かして彼女に話しかけた。
彼女が嬉しそうに笑い、頷く。そして「あなたは?」と私に人差し指を向ける。
「わたしも」私は自分の胸を親指で叩き、もう一度サムアップを作る。

「彼のどこが好き?」と訊くと、小さく躍ってみせてくれた。
ああ、ダンスね。アナタは?と、向こう側の女性に訊く。
「ツヨシ」「優しいとこ」彼女の手がそう喋り、音声の不確かな音がこぼれる。
そうか、そうだよね、優しいよね。私は、うんうんと頷く。

そうやって、私たちは音のない会話を、ゆっくりと交わす。
「おやすみ」と彼女たちが立ち上がり、喋っていた手のひらを私に差し出す。
喋れない私の手を彼女たちの上に重ねる。きっと彼女たちの目には、さまざまな
音が見えたのだろう。そう思うと、なんだか心が温まっていくのを感じた。

気が付くと、騒々しい女性客はみな客室へ引き上げてしまっていた。
ロビーには雨の音と、私たちが交わした会話の余韻だけが響いていた。
そんな、博多での、ある雨の夜の小話。

2003年07月15日(火)
前説 NEW! INDEX MAIL HOME


My追加