人間は死ぬとどこへ行くのだろう?
霊魂となって彷徨うのかな?天国に行く?それとも地獄? 亡くなった人達は、49日まであちこちに出没して、我々が悪口を言っているかどうか聞き耳をたてているのだろうか?
「人間、死ぬとどうなると思う?」私のかねてからの疑問に、
「死んだら、それっきりや。(あっさり)」数名が味気ない応えをくださいました。^^;
茶碗が割れたら、それっきり!みたいな割り切りかただなぁ…ちょっと刹那的じゃないですか…?^^;
例えば…
“美しい花があるとしよう。 花はいずれ枯れてしまう。 美しい彫刻も、それを槌でたたき壊せば、粉々に割れて存在しなくなる。 だが、花や彫像が持っていた「美」そのものはどうだ? 美しい花は失われても、「美」そのものは滅びるわけではない。 彫像は砕けて形を失っても、彫像が表現していた「美」は、いっしょに粉末になってしまうのではない。 我々の魂も同様に思う。霊魂は不滅なるがゆえに、人間の出生と共に地上に現れる。”
これは、最近読み終えた本のなかでのソクラテスのせりふです。
「形」あるものは壊れ、いずれ失われていくれど「美」そのものまで失われるわけではない。 現に、「今夏のひまわりの花は大きく明るくまぶしかった。」というふうに、あなたと私の心に現存しているのです。
これはとてもわかりやすい概念です。
ソクラテスに対する文献は多いですが、かなりボロクソに書いてあるものから、賞賛しているものまで多岐に渡ります。
なかには… 「不細工で太鼓腹で大酒飲んでも酔わないし…いつも美青年をはべらせていた。お金に困っていなかったのでアテナイの街頭でぶらぶらと青年達に悪い思想を植え付けていた。」とか…たぶん誇張はあるんだろうけれども、あながち嘘とは言えないのかな?と思える説もありますね。
こちらの本は、どちらかというととても「知」を愛し、「徳」を追求した人に描かれていると思います。 悪妻と言われたクサンチッペも、ソクラテスとも最後だからか泣いてばかりの心優しい女性になっているし…。
ちょっと脱線でした。
さて、「美」に置き換えた「魂」の概念は、とてもわかりやすかったのですが…
一番、肝心カナメなことが、自分では理解に程遠い…。^^;
古代ギリシャのデルフォイ神殿に掲げられた“汝自身を知れ”という要請は、ソクラテスが「知」の行動の命題としたとされています。
私はこの意味をずいぶん長い間… 「自分自身を内省すること」と捉えていましたが、さにあらず…
普段、自分自身を認識しているつもりの『自分』は客観的に見られた『自分』であって、その主体とする『自分』は、そこから抜けてでしまうんだ。
つまり… 自分で自分を考える場合、『考えられた自分』は認識できるが、『考えている自分』そのものは、永久に認識できない…ということらしい。
( ̄~ ̄;) ウーン 堂々巡りになっちゃうよ。
でも、気を取り直して進みましょう。
で、『つかまえられない自分』というのは、つまりは『ほんとうの自分』ということであって、自己の本質というやつですな。 自分を自分たらしめているもの。 自分の内部にあって、自分を支配している根源でもある。
我々が『自分』だと思っているのは、本当の『自分』ではなく『純粋な自分』によって知らされている『自分』なのです。
ぁあ、駄目です。あなた、今、眠っては。(爆)
それは、いつかは『魂』と合体する『部分』らしいのですが…。 あまりにも抽象的すぎて…(v_v) クゥゥゥ。o◯
はっ!いかん!いかん!!
人は他者に嘘をついたりする時は、思わず目がおどってしまったり、伏し目がちになったりするもんですが、 自分の心に嘘をついている時はどうなるんでしょう?
案外、客体としての自分を潜在意識下で認識していて「嘘」を主体から教えこんでいるのかもしれない。(笑)
丸くも、四角くも、固くも、柔らかくもなる…自分という生き物は、所詮、自分次第…
というような結論に達しました。 今のところは、これで終わりにしようと思っています。
また、続きをひつこくだらだらと考え始めるかも知れないですが、その時はまた、ここに書きたいと思います。
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