ベルリンの足音
DiaryINDEX
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昨日は、古巣に帰ってきて、久しぶりにまた日記を書いた。携帯から書いたので打つのが面倒くさかったし、書いた内容を大画面で読めないので、全然文章がまとまっていなかった。尻切れトンボのような文章ばかりだったことにげっそりしている。
今日も日記を書く予定は無かった。取り立てて何か起こったわけでも、書きたいと思ったことがあったわけでもない。 でも、今仕事を終えて、夜中の二時、もういい加減寝ないと、と思うには思うのだが、やはり一筆書いてから寝たほうが、すっきりするような気がしてこうして綴っている。
ブログを書いてきて、そのほとんどは好きなことを書いてこれたと言えるし、もらったコメントには励まされていた。 しかし何でも続けていると、だんだんこなれてくるもので、ただ書いているという状態に満足が行かなくなった。 個人的な心の動きばかりを書き記してきて、それを好んで読んでくださる方もいたが、私自身、もう少し上達とか、目的を定めた文章を書きたくなった。
なぜかと言えば、自分の心の問題や悩みを切り売りしているようで、そんなこと万人にだってできるだろうと思ったんのである。 ただ、思ったことをそのまま言葉にしていくことを難しいと思ったことが無い。つらつらと書きなぐっていけば、それでその日のブログはおしまい、と言う感覚であった。
なので、まるでちょっとトリミングするように、ブログのスタイルを決め、特徴付けて、自分のアイデアを盛り込み、これとこれがこのブログと言えるようなものを作らないと、書きなぐりだという意識があったのだと思う。
それに先立って、私のプライベートの人生に、色々と変化がおき、振り出しに戻るような形になり、それを機に、今まで自分がどんなことも恥ずかしげも無く書き綴ってきたことに終止点を打ちたくなった。 もうこういうことはあまり書かない。そうではなく、本来のブログ機能として、私にできる情報を発信すればいいと、好きな音楽のことや、本のこと、さらには仕事や住む街のことも書いてきた。
私の心が、その文章にはこめられていなかったわけではない。ただ、プライベートでの姿勢もものすごく割り切って生活すると決めてしまった部分があったので、書く文章も心を前面に出すスタイルになることは無かったと言えばいいのだろうか。
そのせいか、過去のブログで、鬱々とした気持ちを書いていた時代にも読んでいてくれた読者が、新しいブログに移った途端、活動し始めた。私が外に向かって、語りかけ始めた証拠だったのだろう。内に向かって話す文章を書いているとき、彼らはそれに興味を持って読んでくれはしたのだが、決してコメントを残すことは無かったらしい。そのブログをプライベートとシンクロして、引っ越しますといったとき、彼らは突然姿を現し、読者でしたとコメントしてくれた。
とても嬉しかった、目には見えないが、影ながら読んでくれる人がそれでもいたのだと実感した。 その彼らは、新しいブログで頻繁にコメントをくれ、どれも私の内容に上手に対応して答えてくれ、時に温かい言葉もかけてくれた。 でも、昔なじみの友人が、あまりコメントを残さなくなったと言う気がしないでもなかったのだ。
結局、私と言う人間を知る人、つまり過去からの長い間の読者を含めた人々にとって、その新しいブログでの私は、なにか話しかける糸口の見つからないような存在であったのだと思う。 その代わり、新しい読者の人々は、私に話しかけやすい、つまりそれだけ、私が他に向かって発信する文章を書いていたということになるのだろうと、今になって思う。
けれど、突然、本当にある日突然そのブログに意味がないと思ってしまった。 こんなもの、後で読んでも、私の生活のいったい何がそこに垣間見れると言うのか。 私は、やはり日記書きのスペシャリスト(長いと言う意味で)であり、ブログ著者には向いていないのである。
ミクシィで、外部ブログのアドレスを消した途端に、過去に一時期書いた日記が出てきた。もう2006年とかのものである。
ある悲しい小説を通して知り合い、何度かメール交換をして、その彼のやはりどこかもの悲しい過去を知ったという人がいる。 その彼は、当時大学院に所属し、博士号を目指すと言う、若くバイタリティに溢れている生活をしていたのだが、色々悩みとおして博士号を断念し、地元の新聞記者になってしまった。
その彼は秀才で、経歴を見るだけでもびっくりするのであるが、そのある小説というのは、実は彼の書いた文章のことであり、それを発見した私が感想を書いて知り合ったわけである。 なので、彼の文章に関する感性は、とても優れていると私は信頼を寄せているのである。しかし、彼は博士号を目指す、いわば学者の卵でもあったわけで、論理的に物事を考えることがいわば商売ともいえる人間であるため、人の心の中、しかも女性のぐだぐだという心の声などに興味を抱くはずが無いとも思っていたのである。
その彼が、過去のミクシィの日記のコメントに、
僕は、○○さんの、鬱鬱として日記の方が好きです。そちらを読んでいる方が、息遣いが聞こえてくるようです。
書き残して行ってくれた。 すると、そのコメントに便乗して、友人達も皆、鬱のようなことを書いてばかりいるからと言う理由で止めないでくれ、みんなそれを読みたがっているとコメントを続けてくれたのである。
私には意外であった。人の暗い話を聞いて、エネルギーを吸い取られてしまったら、とんでもないというのが、本音ではないだろうか。そんなことを考えていた。
しかし、今から思えば、答えは簡単である。
結局、私は私でしか有り得ない。 私と言う人間は、正直に、赤裸々に、恥ずかしいことも、普通はなかなかいえないようなことも、洗いざらい書いていくという性格であり、それを書いているときの文章が、一番私らしいのである。
私には、とてもこんなことは書けないということまで、公開で書いてくれるので、それを読むことができる。
と書いてくださった方もいた。 それをトリミングなどして、内容を形付けようとしても、そこに私と言う人間の本質を垣間見ることはできないのだろうと、だんだんわかってきた。 私は、書きなぐる方で、校正もなにも一切しないという杜撰さであるが、その書きなぐりこそ、私の話かただし、私の行き方なのである。
色々な要素が一つとなって私と言う性質になるのだが、そこに一つ何かしっくり行かない文章を形作ったところで、近しい友達こそ、遠ざかってしまうというのが、事実だったのだろう。
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この日記サイトを知ったとき、私は人々の、それこそ数え切れない人々の内なる声を読むことができる事実に、文字通り感動した。
ラーメンを食べただけの人いれば、自傷行為を続けている人の日記もあった。サラリーマンの方のも読んだし、悩みなんかこれっぽっちもないという楽しい外国暮らしの方の日記も垣間見た。 それはすごい世界だった。地球のあちこちで、つまらない日常が、来る日も来る日も繰り広げられている。男が女を好きになり、女が男に振られ、またはその逆も起こっているのである。子供が病気になったり、家族が増えたり、それは色々な人間の営みが、一日の出来事として、様々な日記にちりばめられている。 そして、なにか人間の生活のミクロコスモスを一つ一つの日記に発見したような、宇宙的な感覚まで覚えてしまったのである。大げさではない。 その多くは、自分に対して書いている、自分のための「日記」である。 ブログを持っているが、こっちには日記を書くという、まめな行為をしている方もいるようだ。
ブログサイトを巡ったとき、このような思いを感じたことは無い。 この日記サイトだけである。そして、いくつかお気に入りがあり、その日記は今も欠かさずに定期的に読んでいる。 ブログ世界から来ると、非常に閉鎖的で、ここはまったく違った世界なのである。 しかし、読み応えは、その内容や、長さにかかわらず、こちらのほうが深い。 それは、日記と言う性質が、結局自分のために書く行為であることから、その人自身が、他を意識することなく、そのまま書き綴っているからなのだともう。何のトリミングも無ければ、何の躊躇もいらない。後悔も、苦悩も、個人的喜びも何もかも、生活の記録として、自慢とか、謙遜とか、一切そういう次元とは関係なく、とつとつと綴られているのである。
ブログをしてると、自慢に聞こえたらまずいな、とか、あまり謙遜しすぎるのも嫌だとか、でもここには多少自分のライフスタイルを垣間見せるようなことを書きたいとか、常に他者を意識しているのである。そうして書くのも、また楽しい。しかし、心に響くものではない。
人間が小説を読むのは、心を動かされたいからだったり、自分の人生以外の人生を擬似体験したいからである。読み応えというのは、共感であり、自分の人生と重なる部分や、心の中に重なる部分を発見して、その文章内の感情と自分の感情が共鳴したとき、一番読み応えが強くなるのだと思う。
私は、結局他人の文章にそういった共感を探し続けているし、自分の文章にそうして共感してもらえたと実感するときが、一番嬉しく思うのである。
だから、私はブログに、急に意味を見出せなくなったのだと思う。
前回の日記にも書いたが、それでは一人で日記帳を書けと言われそうだが、それは私は嫌なのである。 他人の日記を大量に読んだ経験が、まるで宇宙感覚みたいに、多くの人々の人生を垣間見たと言う感覚を得たのと同様に、私自身も、しがない一個人としての日記を後悔することで、その数え切れない人間の日常に参加したいのである。私の取るに足らないような、実際何も起こることのないであろう、実に平凡な人生も、立派な一つの人間の営みの断片である。それを収集して、人間社会が成り立っている以上、私自身の声も、是非そこに反映させたいと思うのである。 それは、おそらくバベルの塔のブロックのひとかけらにしかならない、つまりそれだけでは何の意味もなさないほどの存在でしかない。 しかし、そういう一つでは意味を成さない物が集まって、複雑で人間特有の社会が出来上がる。 こうしてそういう日記を公開することで、確かに共感したり、励まされたりすることがある以上、万人が文字を公開したいということを制限する必要はないような気もする。
私自身は、ブログより、日記の方に、ずっと問いかけの威力を感じるのである。それが、情報としてはブログより、ずっと価値がないとしても。
ということで、ちょっとある形でお問い合わせをいただいたので、間接的にお答えしますが、ここの日記サイトのお気に入りの方々の日記は、今後も読み続けるだろうし、お気に入りに登録してくださっている数少ない方々が、私の日記を読んでくださるのは、実に歓迎なのです。 ここで書くことは、私が、思ったことをそのまま書きなぐっています。それを読まれて困るようなつながりは、少なくとも、このサイト上では有り得ない。むしろ、書きなぐるというか、思ったことに一切装飾しないで書く、と言う行為だからこそつながっているわけですから、これからも私はPさの日記を読み、自分の悩み、痛み、喜びに、必ず共鳴させて心を動かされ、自分のなかに新しい心の動きが生まれたり、心が静められたりと、何かの形で影響されるのであると思います。
正直な文章で、心の底から自分を見せる、作るという考えとはまったく関係のない次元で書かれた、心の声を通してつながってきた人とは、今でもまだどこかでつながっています。 上記の悲しい小説を発見して知り合った彼とも、会った事はないのに、静かにまだ文章を読みあうという行為で、つながっています。
ブログでみつけた表面的な共通点でつながった人は、訪れたり、また離れたりして、あまり一定しない。
不思議なものです。
さて、ここまで書いて一時間。 私は書き始めると、どうも一時間書くのが癖のようです。
これも、ブログ管理のように時間をとられるので、本当はもっと手短に、言いたいことをかける訓練をしないといけない。 そういうことも合わせて、ここにくるか、どこかで書くか、今後も考えて生きます。
しかし、書く舞台がないのが、これほどつらいとは思わなかった、 私は本当に、書きなぐっていないとダメなのだと実感します。
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