LORANの日記
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2007年07月27日(金) |
すべては決まっている。 |
「すべては決まっている。」と書くと、とても消極的に思われるかも知れません。
でも、そんなちっぽけな感傷など、入り込めないくらい大きな問題なのです。
一般には、目に見えるものは信じられますが、目に見えないものは信じられないようです。
しかし、実際に目に見えるものは、極めて限られた事柄です。
大切なものは、殆ど目に見えないと思います。
「生命」は? 「愛」は? 「神仏」は? 「宇宙」は?
目に見えるものに囚われる考え方は、実証主義と言えるでしょう。
実証主義は、科学の発展によって裏づけを得てきました。
では、科学は万能なのでしょうか?
科学者に、その真意を聞いてみたいものです。
科学者は、きっと「まだまだ始まったばかりで、すべてを知ることはできない。」と言うでしょう。
しかし、マスコミの報道しか知らない民衆は、その報道を絶対視するでしょう。
ここに、大きな錯誤ができるのです。 錯誤とは、誤解のことです。
つまり、殆どの事実は、誤解されているのです。
「すべては決まっている。」とは、人の運命のことです。
「運命」とは、一般に信じられているような、薄っぺらなものではありません。
「衣食住」や「名誉」や「資産」などは、すべておまけです。
「誰と結婚する。」とか、「何人子どもが生まれる。」なども、おまけです。
「どのような職業につく。」とか、「お金持ちになる。」も、おまけです。
つまり、いままで関心を持っていたことは、すべておまけのことばかりです。
「運命」とは、そんなおまけの問題ではありません。
「運命」とは、どのような人生を送っていても、抗し難い内面の欲求のことです。
とても恵まれた生活をしていても、どうしてもしなければならないことがあります。
お釈迦様は、釈迦族の王子として生まれましたが、29歳のとき、男子が生まれた
ことで、跡取りができたとして、出家されました。
どのように恵まれた環境にあっても、それをすべて捨てて、自分の内面の欲求を
貫く人生を送られました。
これが、「すべては決まっている。」ことなのでしょう。
お釈迦様だけではなく、歴史上、名前が残っている人の多くに、それを見ます。
この世界に、肉体的な満足を得るだけの目的で生まれてきた人は、少ないでしょう。
しかし、目の前の事象に翻弄され、自分を見失っていては、気づくことも難しいでしょう。
もう、いい加減に、自分を見つめてみませんか?
自分の感情や思いを離れて、真の自分を知ってみませんか?
あなたが、自分に気づくことを、あなたた自身が最も望んでいます。
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