長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年05月24日(火)

 毎日を忙しいと感じられることは、其れは本当に幸せであると思っている。其れは、真実。また、忙しいことを理由にしてある特定分野を疎かにしたくないと思うことも、真実。同時に、忙し過ぎて本当に自分が望んでいることを見失いたくないと思っていることも、事実。難しいのは、きっといつもバランス。

 私は、自分は酷く保守的な人間であると思う(仕方が無いという諦観もある、私は所詮あの人の血を継いでいるのだから、つまりあれ、蛙の子は蛙、瓜の蔓に茄子はならぬ)。保守的でありながら、私は多分異端でもある(異端という定義にもよるけれど、多分異端じゃない人を探す方が難しいのだろうとも思う、要は自覚の有無くらいなもので)。人前で如何に振舞おうと(或る場合であれば、決して弱みを見せず、凛としてる姿、或いは誰にでも明るく振舞う、もしくは笑顔を絶やさない姿)、人前でない時には、悩みもするし惑いもする。落ち込むことも、其れ以上に鬱になるときもある。そういう傾向が顕著になる場合もあるだろうし、本人以外に伝わる場合も、決して伝わらない場合も、あるだろうし。誰かにとっては笑って済ませられる事象が、彼もしくは彼女或いは私やあなたにとっては物凄く負担になることだって、あるじゃない。あって当然。其れは忙しいこと自体が負担なのではなくて、もっと、些細なこと。そういう瑣末事に気を取られるのを、私は酷く嫌う性質にあるのだけれども、いつも身から遠ざけていられるわけじゃない。
 だから、逃げたいのではなくて(否、勿論短絡的に逃亡したいと思うときはある、というか殆ど常にそうなのだけれど、冷静に考えると現在からの逃亡ではなくて)、考える時間とか、逆に何も考えなくてもいい時間とか、そういうものを望むときもある。引き篭もり――っていうのは、そういう意味なら、私は大いに賛成なわけ。もっと言えば、精神的な引き篭もりっていうのは素晴らしいとさえ思うわけ。だって、常に外界に接していて精神的に安定していられるとは思わない。また同時に、常に内側に閉じこもっているのは好ましくないと思う。引き篭もりが永遠に続くというのはあってはいけない、自給自足で完全に社会から隔絶して隠遁生活を送るというのなら、話は別だけれども。

 ねぇ、バランスでしょ、要は。自分の中で、折り合いをつけたいだけなの。不安定さと安定さの、不安と自信の、思考と行動と、そういう、折り合い。










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