長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年05月15日(日)

 如何してこんなことでこれほどまでに気を使っているのだろう――と思うことが、しばしばある。ただ、多分、向かい合っているときは其れが最善なのだろう。少し時間が経って、改めてゆっくり考えることが出来た時、なんだかなぁ――と思うだけで。

 流石にそろそろ忙しくなってきているのだけれども、まあ、昨年度に比べれば大したことは無い。そう思い込んで一応何とか乗り切っている五月。倒れたら其れは其の時。去年だって何だかんだと言いながら――確かに二度ほど倒れたけれども、乗り切ったわけだし。死ななきゃ何とかなる、寧ろ何とかしなければならない。そんな感じの五月病はそろそろ末期(の筈である)。本領発揮(しなければならない)六月までは残すところ半月しかない。
 他者の自分に対する評価と、私の私自身に対する評価との、差が大きければ大きいほど、辛い。遣る瀬無い。其れがどれ程些細な事であっても。嗚呼そういう風に思われてるんだなぁ、という単純さではなくて。嗚呼そういう風に振舞わなければならないのかなぁ、という日常的な演技に対しての瑣末事。此処では何度も書いたかも知れないけれど、演じるのは非常に簡単な事だと私は思っている。演じることと嘘を吐くこととは違う。演じるのは、容易だ。慣れてくれば演じ分けるのも然程難しくはない。慣れてくれば。


 もう少しだけ、殻の内側に、繭の内側に、眠りの如き安寧の中で微睡んでいたいなと思う。何も思考することなしに。そういう気楽さは、如何遣っても手には入れられない。限り無い努力をしても。全てを投げ出しても。決して。










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片翼 [MAIL] [CLAP!]

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