五月病、ではない。もっと日常的な、恒常的な、鬱々としたもの。鬱病という程酷いものではなくて――気怠い感覚。時間其のものが惰性を帯びているかのように。
気分が何と無く晴れないことを天気の所為にするのは間違っている。私は雨の日が嫌いなわけではないし、晴れは好きだけれども眩し過ぎるのは苦手だし。もっと些細なことが、其の積み重ねが、苛立ちを募らせる。穏やかに在りたいと思えば思うほど、焦る。学校ではまだ良い――十年以上も学校という特殊なコミュニティで生きてきたのだから、演じることは簡単だ。ただ、そういう行為に疲れて帰宅して、ぐったりと死んだように眠るだけ。死んだ魚のように――横たわった侭に。今、私が夜に寝付けないのは夕方に眠るからだろう。しかし夕方に睡魔と戦えるほど、私は気力も体力も残っていない。無理に戦おうとも思わない。そういう、怠惰。 夕方の睡眠は、短いときは半刻ほどで、長いときは二時間にもなる。
表現の方法を模索している。こうして日記を公開するのは一つの表現方法であるだろうし、執筆活動もまた然り。しかし、何処かしっくり来ない、とも思う。フィクションに限界を感じ始めたとき、随筆に近い文章を書くようになった。日記も之に近い。雑誌出版を思い立ったのも、表現方法の模索の一環だったのかも知れない。私が当初考えていたよりも大きな輪になりつつあり困惑している。其の分責任も大きくなる。それでも、一度遣ってみたいと思った。文章力の向上も兼ねて。表現方法模索の一環として。
自ら努力することを忘れてしまった人には何も言われたくない。 私にとってはこれが普通、私は他の「堕落の仕方」を知らない。 知りたいとも思わない、私は私の惰性以外の「堕落」を受け付けない、理解もしない。 ただ、受け入れることはしよう、貴方が、彼が、彼女が、「堕落」を持っているということは。 押し付けるのも、押し付けられるのも、私は嫌いだから。
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