兄を尊敬した時期があった。多分、小学生くらいの時。私は兄と四つ離れているのだから、私は低学年で、兄は高学年だったのだろう。 アイデンティティという言葉の意味さえ理解していなかった頃のことだ(其の言葉を聞いたことさえなかった頃、かも知れない)けれども、若しかしたらそういう「自己同一性」なるものは複数存在するのかも知れないと、私は兄から学んだ。つまり、兄は私の前では「お兄ちゃん」、両親や先生即ち目上の人の前では「僕」、更に友人の前では「俺」と、三つの一人称を使い分けていたのである。之は私にとっては酷く驚愕すべき事であった。兄は、一度だってこれらの一人称を間違えることは無かったのだから。否、私の知らないところで間違えることくらいあったのだろうけれど、其れは回数のうちには入らないだろう。今猶、兄は此の使い分けを徹底している。人生の中で何回一人称を使うか知れないけれど、その中での何十回という数は、然程大きくは無い。 演じ分け、と言うのかも知れない。一人の人間が一生のうちに幾つの人格を演じ分けるのかは解らないけれど、成程、一人称を使い分けるという事は容易に幾つかの人格を演じ分けることが出来たのかも知れない。 比べて私は如何だろう。常に「私」の一つで過ごすことが出来る私にとって、然しそれでも人格を演じ分けねばならない私は、何処かで混同してしまうことがあるかも知れない。其れを恐れて私は、慎重になるのかも知れない。
|