長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年04月16日(土)

 何だか生温くて、怠惰な感覚。春眠不覚暁――ではなく、もっと、不快な感じだ。

 幾つかの事柄が気になり始めるともう忘れられなくなって、他の全てを放り投げても其の事柄に打ち込むことがある。同時に、どれ程気になっていても其れに手を付けられないこともある。だからか――今日出来ることは明日に延ばさず、或いは今日出来ることも明日に延ばす、というような、私は常に二つの選択肢を作る、作らねばならない。其れが、私の中では一種のシミュレーションにもなっている。
 四月は物事の始まりで、新しい環境が作られて、何かしら自分も新しく変わらねばならないのだと――そう考えている友人がいるようで、彼女は必至に変わろうと努力している。化粧を濃くしてみたり、髪型を変えてみたりと。其れ即ち自分のスタイルを変えることによって自分自身も変わろうとしているわけだけれども――其れが彼女の何を変えるというのだろう。私から見れば、彼女は何一つ変わったわけではなく、変わろうと努力している姿が痛ましくさえ思える。別に彼女を非難する訳ではなく――つまり、変わろうとする精神に対して如何こう言うつもりは皆無なのだけれども、そこまでして変わる必要があるのかと、私は問いたくなるだけ。現に、変われない自分に絶望している彼女自身が其処には居る。
 何故、他者に理解されねばならないのだろうと――思う。他人に認められなければ自分自身さえ認められないのだろうか、と。私は決して強い人間ではないから、成程確かに自分以外の誰かに私という輪郭を作ってもらう必要性を感じるときも、ある。と同時に其の作られた輪郭から、私は飛び出すことが出来ない。輪郭を壊す事が出来ない。精々、輪郭から様々な連結する線を描いて幅を広げるだけ。然し其れさえも、再び他者によって消されてしまう事もある。畢竟私という存在を規定しているのは私ではなく、他者なのだろうけれども。だったら猶の事、変われない自分に絶望するなんて無意味ではないか。
 私はコミュニケーションを学ぼうとしながら現実には初めからコミュニケーションを拒絶する傾向にある――ということぐらいは、自分のことであるし理解している。拒絶するというのは他者と関わりを持たないということではなく、理解という域に関しての話だけれども。人間一人では生きていけないのだから関わりを否定することは無い、然し他者を全く理解しようなんて莫迦げている――そう、思っている自分が何処かに在る。
 変わろうとしている自分がいる、其れだけで既に彼女は変わっている筈なのに。何を、焦り、慌てているのだろう。










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