教務ガイダンスなんて行かなくても良かったのかも知れないのだけれど、例年此のガイダンス時に『危機と文化』なる学部の紀要を配布されるので登校する。結局、発行が遅れているとかで『危機と文化』は手に入らなかった。後日ゼミナールを通して配布される、らしい。今日の目的は此の紀要だけだったので其の侭帰宅しようかとも思ったのだけれど、部室に立ち寄る。単なる気紛れと言えば、其れまでだろうけれど。強いて理由付けをするならば、年明けから音信不通にしていた事を少なからず気にしていた事、休部中の部員 N 氏と鉢合わせた事、だろうか。 考えてみれば三ヶ月振りの部室のわけで、違和感を覚えるのは当然と言っても過言ではなかったのだろう。私の不在中に新しい部誌が完成していた事とか、既に新入部員が三名居る事とか、そういう事を含めても除いても。 別に夕方まで居坐っても良かったのだろう、私は他に目的も予定も無かったのだから。其れでも一時間足らずで退室してバスに飛び乗ったのは、微妙な空気の違いを感じていたからだろう。部室の空気が変わったとか、雰囲気が変わったとか、そういう事ではない。つまり、私自身の問題。――国外逃亡先の空気を未だに纏っている気がして、そういう微細な感覚が拭い切れなくて、居た堪れなくなったのだ。厄落とし――の気分で、大通を徘徊する時間は充分に在った。近々買物をしなければならないし、其の下見として徘徊の理由も充分だった。……雑踏に出たくないと思ったのは、何故だろう。人酔いしやすいから、という理由ではなかったように思う。ただ、そう、何と無く。 多重生活、という表現が適切かどうかは解らないけれど、演じ切る、という意味合いでは若しかしたら私は多重生活を送っているのかも知れない。時々不安定になることには、其れらの境界線が曖昧になり兼ねない爆弾を抱えている、ということだろう。爆弾。梶井基次郎の『檸檬』風に言えば、不吉な塊。未だ私にもこんなに sensitive な部分があったのかと、驚きと呆れが充ちる。嗚呼、何だかなぁ! そんな感じ。 ……結局、厄落とし、は、名前の無い某友人(こういう書き方は不可ないのかしら?)に助けて貰う形で、如何にか。取り戻したというか、何と言うか、取り敢えず一段落させる。 明日が朝一で履修登録、明後日からは通常授業が始まるわけで――悩んでいる暇も迷っている暇も無いのよ。畢竟するに、私たちは時間に追われながら日々を過ごしているんだなぁと思うばかり。
何を、焦っているんだか。
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