長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2005年03月29日(火)

 高校時代に一番お世話になった先生は誰か――と訊かれても、私は直ぐに答えられない。少なくとも担任ではないと思う。担任は、私達を受け持っていた時に幾つか問題を起こしていたので生徒との溝はとても深かった。其れを除いても、あまり好かれてはいなかった。授業は、まあまあ解り易かったけれど。
 今日は部活(ESSだったのだけれど)の顧問だった先生と、友人Mと、私と、三人でランチに出掛けた。先生が転勤するので、というのが一応の理由。実際は、友人Mが此の先生に一番お世話になったということで、其のお礼とか、会いたいとか、お話したいとか、そういうことに対して同じ部員であり最も近くに住んでいる私に白羽の矢が当たっただけのこと。多分。

 電話のおはなし
 私の国外逃亡中、日本から一緒に行った学生は私を除いて11名、其の全員が日本の実家に三度以上電話をしている。日本の友人に電話した人も居る。そうして11人全員が、平日大学に行った日は「必ず」パソコンルームで日本との時差もお構い無しにメールをしていた。
 私は、日本に一度も電話をしなかった。パソコンは使ったけれど毎日ではなかった。
 パソコンは兎も角、日本へ一度も電話をしなかったことに関しては如何やら彼らにとって「普通」ではなかったらしい。寧ろ「異常」なことであったらしい。言及もされたし、責められもした。何故、と。電話代が高いからではない。コーリングカードなるものを使えばかなり安く、国際電話をかけることが可能だからだ。親との不仲、という訳でもない。此の場合、そういうことは全く関係無い。たとえ私が一方的に親を嫌っていたとしても。そういう感情的なことでも無くて。
 理由を答えるのは簡単だ。親は共働きで、時差を考えると私が電話出来る時間帯には家に誰も居ない。だから電話をしなかった。唯其れだけの事。これは一つの事実であるし、更に私は出国するときに判然と断言した。「何も無かったら、電話はしない。若し電話がかかって来たら、其れは私に何か遭ったものだと考えて」と。


 高校時代、ESSに私の学年は3人しか居なかった。友人Mと、今は連絡先さえ知らない友人Aと、私と。其の中では多分、というか絶対、私の英語力は最低だった筈。其の私が一ヶ月間英語圏に行って生活し終えてきた事は先生にとっては「異常」だったようだ。因みに友人Mは選抜試験に合格したので今年八月から来年五月まで、USAに留学する事が決定している。彼女は、多分3人の中では最も英語の成績が良かった。部長でもあった事だし。つまり、彼女に先駆けて、という事実が「普通」ではないということ。










 <<  道標  >>


一言メッセージフォーム。長文は此方をどうぞ。




片翼 [MAIL] [CLAP!]

My追加