長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2004年12月20日(月) 引き篭もりのすすめ

……昨日の日記、中途半端ね。



 今日から三日間は集中講義に出席している。講師は、詩人の吉増剛造氏。厚かましくも吉増氏の助手という"地位"に就いて、講義の御手伝いをさせて貰っている。と言ってもプリントの配布と出欠確認、それから"小冊子の作成"くらいなものなのだけれど。
 話は、やや冗長。然し其れが何だと言うの。大学教授の中には、と言うより寧ろ其の多くが、冗長なのだから。冗長ではあるけれど、氏の話は、興味深い。我が大学で集中講義を行うようになって十年近く経つそうだけれど、講義内容は変わらない。但し、毎年テェマが違うのだとか。今年は、「たった一人制」がテェマ。佐世保で起きた例の事件から、思い浮かんだのだとか。

 書名は忘れてしまったけれど、最近だと思う、引き篭もれ、みたいな本が出版されている。出版社も著者も、覚えていないけれど。つまり、現代人は「自分と向き合う時間」を奪われている、だから引き篭もる事は何も悪い事ではない、自分と大いに対話せよ、其の為に大いに引き篭もれ――というような内容、だったと思う。因みに私は未だ読んでいないのだけれど。
 成程、現代人は「自分と対話する時間」を確かに奪われているだろう。誰に、何に、奪われているかという事は此の際問題ではない。世間に、世界に、或いは自分自身に、奪われているのだろうと予測は出来るけれど。……話題にしたい事は、こんなことではなくて。つまり、一寸引き篭もりがちに、或いは引き篭もりがちになりたいと願っている時に、引き篭もって良いよと言われた時の、安堵と焦燥と虚脱と、そういう心情と言えるかどうかさえ判らない情の、満ちる感覚。
 引き篭もりの推奨なんて社会的には言語道断だろうし、私も敢えて此処で賛成するつもりは無い。ただ、何と無く脱力してしまったというだけの事。

 終わりが見えないという恐怖。読書は、後どれだけ頁が残っているのか直ぐに解るし、映画は、半日かかる作品なんて無い訳だし、時計を手放す事の出来ない私にとっては、終点が見えているという事は只管に大事だ。今日は、其れが裏切られた。土方巽という名を聞いて直ぐに思い当たる人は、相当芸術に造詣の深い人か、若しくは此の手の作風を少なからず愛好している人だと思う。つまり、三島由紀夫や澁澤龍彦を含めた作風が。土方巽は舞踏家で、暗黒舞踏なるものを構築した人物なのだけれど。其の、暗黒舞踏のヴィデオを、今日、見た。暗いというよりは黒い背景、つまり舞台上に、白い人影が、奇怪な動きを、する。奇怪と言っては失礼だろうけれど。兎に角眼に焼きついて離れない。延々と、暗幕に囲まれた講堂の中で上映されるヴィデオに、暗黒舞踏に、私は多分汚染されていた。感染、と言っても良い。
 北国というのは非常に特殊な土地であると時々思う――風土、と言うよりは、風と土と空と水と、そういうものが。或いは、海に閉じ込められた大地という意味も含めて。冬の寒さも暗さも、多分"本土"では解らないほどに。

 どうせ、人間は産み落とされる時も死ぬ時も、一人よ。一人きり。たった一人。










 <<  道標  >>


一言メッセージフォーム。長文は此方をどうぞ。




片翼 [MAIL] [CLAP!]

My追加