長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2004年09月15日(水)

 日本人は自由を勝ち取ったのではなく、自由を与えられた。だから日本人は自由に対する考え方が甘い。だって、日本人にとって自由とは与えられるものであって、勝ち取るものではないから。
 そんなふうに、高校時代に聞いた。高校時代の社会の、日本史の先生は、色々な良い話をしてくれた。其れは、少なからず糧となっている。

 大学生活は、私にとって必ずしも無意味なものではない。有意義なことは探せば山ほど在るわけで、有意義に過ごそうと思えば幾等でも意味のある生活になる。億劫になることも鬱になることもあるけれど、其れでも探せば良いところは転がっている。

 旅行を終えて、或いは旅行の最中から、自由というものについて少しずつ考えてみる。最近は忙しくてそんな機会も失われていて、或いは意図的に失うよう仕向けていて、だから少しだけ向き合える時間があることは、私にとって悪い事でない、きっと。
 大学受験に失敗したとき、四年間我慢しようと、私は自分で決定した。何かを決定するという行為が非常に苦手な私が自ら決定した事だから、そうして此の決定は私自身に深く関わる事だから、私は頑なに守るだろう。此の四年間は、私は、己の自由を諦める。受験に失敗した事が、私の咎だから。

 ――と、今更一年半も前のことを考え直してみる。改めて、思い出してみる。正しいとか正しくないとか、そういうことは無関係に。私は、私の周囲の環境と関係性を考慮した上で、決定した。昔と、変わらずに。
 私は、20年くらいの人生の中で、何度か自分自身に深く関わる決定を下している。其のうちの一回が、一年半前の其れで、此の決定はあと二年半の効力を持っている。


 リスカの意味が、私にとっては刻印で、忘れない為のもの、であるならば、今は紅い筋を作らない白い筋だけが残っている左の腕に、私はもう一度紅い色を刻むべきか、若しくは刻むことが可能、なのかも知れない。










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