2005年04月17日(日) |
【閑話】僕が「おやじ」である理由 |
最近は「おやじ」が少なくなったなぁと思う。僕が若い頃は、イケナイ事をすると、縁もゆかりもないおやじに怒鳴られたものだ。友達の家に遊びに行って悪さをし、ダチと一緒にダチ親に叱られるなんてのは日常茶飯事。それが現代はどうだ。すっかり「おやじ」は鳴りを潜めてしまったor絶滅寸前の危惧種に成り果ててしまったではないか。 いまやおやじが絶滅危惧種に指定されつつあるのは、振り返ればじつに長い時間に色々なことがあったように思える。つい先日残念にも他界された中尊寺さん発祥の「おやじギャル」ではギャルにお株を奪われたし、「おやじ狩」なんていう怖ろしい言葉もあった。一体全体おやじのどこが悪いんだ?などと書いてる僕自身、おやじという存在を疎ましく感じていた時代はあったのである。 そんな僕が、「おやじ」になろうとしている。いや、「おやじであろうとしている」。疎まれようが「莫迦じゃないの」と言われようが、自身を鼓舞しておやじであろうとしている。堅苦しい文章や長い文章はやめたほうがいいよと言われようとも、書いたことで誰かに「アンタなんか大嫌い」と叫ばれようとも、世間の隅の隅のそのまた隅っこのほうに追いやられようとも、頑として「おれは言っちゃうよ、書いちゃうよ、おやじだから」と強がる男であろうとしている。 人間ってのは不思議なもので、若い頃は父が夜な夜な見ているテレビの時代劇が、僕は嫌いで嫌いで仕方なかった。それがいまはどうだ。どうにかして子どもらにも時代劇の面白さを教え込もうとしてるではないか。そう、人間は年端を重ねると変化していく。それまでは感じなかったものも感じるようになる。それなのに、「おやじ」になるにつれて、現代の大人たちは口を閉ざしはじめてしまうのである。それでいいんだろうか。 ネットという摩訶不思議な世界と付き合うようになって、はや七年半の歳月が流れた。「ヲトナごっこ」をはじめたのはちょうど三年前だったけど、それ以前にも僕は幾つかのサイトを手がけ、ウェブを通して本当に数多くの人たちと交わってきた。そして僕は、常に「なにものか」とぶつかりつづけてもきた。迎合できないのは性格かもしれないけど、納得いかないものを自分の正論として持つことはできなかった。 仲良くすることはいいことだ。人と険悪になれなどと説教たれる莫迦もいないだろう。ブログやリンク集もそうだけど、相互にコメント入れて親睦を深めていくことは、きっと悪いことではないのだと僕は思っている。 けれどそこには、本当に心の底から納得できる状態があるんだろうか。「本当はそう思わないんだけど、それを書くと嫌われちゃうかもしれないから……ま、いっか」てな按配で本意でないコメントを書いたことはないだろうか。チャトレにとって男連中は「客」に違いない。だから、「こんなことを言ったら(書いたら)、もうチャットに来てくれなくなるかな」なんて思って書けなかったってことも少なくないだろう。 確かに、世の中には「口にしてはいけないこと」というのはある。親しき仲にも礼儀あり、というように、触れてはいけない世界というのはあるものなのだ。しかし反面、「言わねばならないこと」や「言わねば伝わらないもの」というのも間違いなく存在している。大の大人であるのなら、その辺の使い分けができて当然なはずなのにそれができないのは、馴れ合いが暗黙の了解となってしまっているこのウェブ世界の落とし穴であり、いけない部分なのではないだろうか。 僕は、偏屈な因業おやじになりたい。絶滅危惧種となりつつあるおやじに、あえて今なってみせたい。それはひとえに、僕がこのウェブ世界というものを愛しているからで、将来にとてつもなく大きな不安を抱いているからに他ならないだろう。 ネットは文字を身近にしてくれた。誰もが気軽に活字を打ち、一夜で俄か作家ができあがってしまうような世の中になってきた。けれどその背後で、確実に文学は衰退しようとしている。顔文字が流行し、美しい日本語が消え去ろうとしている。僕はそれが厭で厭で仕方がない。日本語の美しさに気づき、これからそれを学ぼうとしている身にとって、わけのわからん記号と文字との世界をどうしても認めるわけにはいかないのである。 もちろん、文化というのは後々評価されることがあるという側面も僕は否定しない。絵文字や顔文字だって、もしかすると遠い未来においては、過去の輝かしい遺物となっているかもしれないだろう。しかし僕には、これまで累々と積み重ねられてきた日本語の美しさを無視した行為が、歴然とした文化となるなどとは思えないのだ。 軽薄短小が悪いとは僕は言わない。いや決して言葉のあやなどでなく、心底そう思っている。それがその人のライフスタイルであり信念であるのなら、誰がとやかくいう筋合いのものでもないだろう。けれど、それでいいのかと思う気持ちはある。それで果たして、本当にいいのだろうか。 だから僕は、「おやじ」であろうと思っている。捨石であろうが楔であろうが構わない。自分が美しいと思い描いている世界をまぶたに浮かべ、目一杯強がっておやじとして生きていってやろうと思っている。それがきっと僕が僕である所以なのだと、そう思っているんだ。
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