2005年04月07日(木) |
気になって仕方ないもの 〜しましま〜 |
しましま。この奥深きもの。
そもそもしましまという名前自体がしましまである。 これについて異論はないであろうが、一応実証しておく。
しましましましましましま しましましましましましま しましましましましましま このとおり縦縞である。
しましまがなぜ、現代社会に台頭してきたか。 それは、しましまがデジタルであることに由来すると思われる。
例えば手書きのTシャツを、完全に数字で表そうとしても、 limのX→∞を使うしかない。
だがしましまならできる。簡単にできる。 しましまN=(幅N、下地色N、しま色N、…) できたマトリックスの数字を変えれば、 それこそ無限大にしましまの可能性は広がる。
ただしそれは理論上の話であり、人間の認知域というものはある。 あまりに細かいしましま…例えば幅N=0.002ミリではただの色だ。
人間はどこからどこまでしましまとしましまと認識するのか。
たとえばボーダーシャツ。 しましまが一回であれば、ただのツートンカラーだ。 しましまが二回…意見の分かれるところだ。 しましまが三回なら…これは完全にしましまと呼べるだろう。
二回。これがボーダーラインか。
じゃあもっと回数が増えて、 しましま幅が2センチなら…しましまだ。 しましま幅が1センチ…まだしましまだ。 しましま幅が5ミリ…苦しくなってきた。 しましま幅が1ミリ…これはもうしましまTシャツとは言えまい。
個人差はあるだろうが、5ミリというところか。
よろしい。 では仮に、これをしましまの認知域としよう。
じゃあ、かっこいいしましまとそうでないしましまは何が違うのか。
昨日の例で言えば、 雑誌のブランドしましまはかっこよかったのだが、 ユニクロしましまはだめであった。
何がだめだったのか。
例えば、「ドリフ」と「カーテン系」 これはどっちもだめだったものだが、共通項があるとは思えない。 あるとすれば、値段が安かった、それだけだ。 だが、値段は後からつけられたものだ。 それがしましまに影響するとはおかしいではないか。
待てよ?
同じ素材で作ったとしても、 高そうなしましまと安っぽいしましまはできるだろう。 いくら雑誌に載るブランドといえど、 ダサイ、安っぽいしましまを作ることは可能だ。
まさか。
まさかしましまの方が値段を決めているのか? だとすれば昨日の苦労はまったく的外れだったということになる。
つまり、私がデザイナーだったとする。
しましまマトリックスを動かして、すごくいいしましまができたら… ブランドメーカーに高く売るだろう。 また、高く売れるだろう。
そこそこいいしましまができたら… そこそこの値段でユニクロに売るだろう。 また、高くは売れないだろう。
まさかしましまにそんな市場主義が働いていたとは。
――やはり上質のしましまを手にするためには、 4800円で買わないとだめなのか。 それは私の財布にとって不可能と同義。絶望が私を襲う。
いや。
待て。希望はひとつだけ残っている。 その結論に至る前提がひとつ抜けているぞ。
しましまの良し悪しは、果たして絶対的な「真・善・美」なのか。
個人差・環境差があるのではないか。
見ろ! 関西における黄と黒のしましまは、関東より確実に売れているぞ!
つまり私がかっこいいしましまを1300円で買おうとするなら、 世間的にはそこそこ評価だが、 私にとって超かっこいいしましまを探せばよいのだ。
希望だ。
諸君!雑誌に惑わされてはいけない! 自らの愛するしましまを着ようではないか!! もっと自由に、しましましようではないか!!
ただし! 赤と青と金と銀のしましまが100円で買えてラッキーと思う人は、 ちょっと気をつけよう!
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