山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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私は24歳のときに妻の真理子と結婚した。現在の世相からするとちょっと早いように感じるかもしれないが、当時(昭和56年)にすれば平均的ではないかと思っている。 私が彼女を知ったのは隣家の同級生(女子)のところに八戸東高校(当時女子校)の同級生たちが数人集まり集会(今でいう女子会か)をしていた時にたまたま顔を合わせたのが初めてであった。ベレー帽をかぶり周りの人たちとはちょっと違う雰囲気を醸している人だった。そのときはそれだけであった。 その後八戸三社大祭で再会した。私は青年活動として沼館にある勤労青少年ホームを拠点に地域的に、地域的に祭に参加できない子どもたちが参加できる道を拓くために「青少年の山車を制作運行する会」(通称:青山会)に参画しお囃子を担当していた。そこへ彼女がやはりお囃子に参加するため白銀の職場から自転車をこいで毎日通ってきた。 私は市役所の道路建設課に配属になっていた。そこに市内でも中心的に青年活動をけん引している人がおり、その人に影響されて私は青年活動にのめり込んでいた。ローターアクトクラブ、素心白ばら友の会、友愛青年連盟、青少年の山車を制作運行する会、そしてそれら多数の組織の横のつながりを組織するサークル連絡協議会事務局まで入り込んでいた。それらの仕事を自宅に持ち帰り、仲間と一緒に深夜遅くまでガリ版を切ったり謄写版を刷る姿を見て母がひとこと言った。「お前のオヤジにそっくりだ!」知らず知らずのうちに父が若い頃していたことと同じ道を辿っていた。私はこれらに彼女を誘った。広報でのガリ切りの仕事とか、深夜までかかった案内状の作成、また食事の支度や後片付けをしてもらった。家事をテキパキとこなす姿を見てとても家庭的な女性だなと思った。 お祭りの練習に自転車でやってくる彼女の背中は汗でブラウスがペッタリと張り付いていた。その背中を見て一生懸命だともちょっと気の毒だとも思った。彼女の自宅は湊地区だったので夜遅くなった時や天候の良くない時は車で送って行くようになっていた。道すがらいろんな会話をするが、話しているうちに小さい頃にとても苦労して育っていることに気が付いた。母親が長期入院を余儀なくされた結果として縁者に預けられることになったそうだ。その辺の経過やその後の育ちが、私の父の生い立ちにも似たところがあると不思議に思った。 その後私は彼女を両親に紹介した。しばらく付き合っていたが、そのうちにもう結婚したいと思うようになった。そんな気持ちを父は理解してくれた。結納や式の日取りもどんどん決めていった。父は親戚にも相談せずに日取りを決めてしまい、案内状まで印刷してしまったので、後日父は親戚中から非難を浴びた。 結婚式も披露宴も八戸グランドパレスで行った。親戚や職場の先輩や同僚はもちろんのこと、当時青年活動をしていた仲間たち、かつての同級生らが祝福してくれた。 父はこの時点でも半身不随のままであったが、披露宴などでの父親の役割は十分にこなしてくれた。特に両家を代表しての謝辞はきちんと原稿を用意していたようで、言語障害が残っていたにもかかわらずスラスラと淀みなく挨拶した。こうして一連の父の行動を見ていると落ち着いていて不安を見せない。意外と度胸がいいのかもしれない。
昨年3月までは賃貸住宅3棟の大家だったが、3.11の大津波で2棟を失った。結果高台にあって管理運営会社に任せていた1棟のみの大家になった。 本書は賃貸住宅に関するあらゆる情報を集め、今後避けることのできない少子高齢化社会に向かい、どのような傾向になっていくのか、どのような対策が考えられるのか考察している。特に賃貸住宅建設会社の動向や、建設後の管理運営方法についても詳しく紹介している。 これまで賃貸住宅を経営してきた人はもちろん、これから新規参入しようと考えている人にとっても大いに参考になるだろう。
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