急に暖かくなって、体調が変です。
体調管理に困っている人がたくさんいるのではないでしょうか。
これで梅雨時になるとグッと気温が下がったりして、具合も悪くなるというものです。
特にこちらの八戸地方では、「やませ」と呼ばれる偏東風が吹くと、ひどい時は夏でも気温が20度を下回ったり、稲が稔らないことさえあります。
毎年そうならないことを祈ります。
放送大学の特別講義「万里の長城に見る中国史」で紹介されたので読んでみることにした。
わが国では「万里の長城」というが、本家の中国では一般にただ「長城」とだけ呼ぶそうだ。「万里」も実際に長さが一万里あるということではなく、「とても長い」という意味の形容詞として使われている。これらを含めて初めて知ることがたくさんあった。
長城が作られた第一の目的は北方民族の侵入を防ぐことにあった。彼らは騎馬民族であり機動性に優れ、当時の中国の歩兵はまともには太刀打ちできなかったらしい。
では誰が長城を作ったのか。「万里の長城といえば秦の始皇帝」というのが一般的だが、始皇帝の時代には既に一部存在したそうである。長く繋がってはいなくても、壁が点在したようだ。だから始皇帝が最初に作ったとはいえないようだ。
次に「孟姜女伝説」というのがあって、昔は壁の中に罪人や俘虜などの人を埋めたという、いわゆる「人柱」伝説があったが、それは真実ではなかった。仮に人を入れたとすると、その部分は強度が極端に落ちるため、人を埋めることは構造上ありえないのだそうだ。
そして現在見る長城は明代において充実し今の姿になった。かつて、1984年に北京の八達嶺の長城を見たことがある。最近テレビで八達嶺付近の長城を放映していたが、観光客や物売りがとても増え、歴史遺産というよりはただの観光地としか思えない雰囲気になった。
二千年にもわたり壁の北と南で攻防が繰り広げられてきたのだろうが、明末に女真族の金が山海関から無血入城し長城の役割は歴史を終える。なんともあっけない幕切れであった。
初版が出たのが昭和38年、昭和60年に第54版が出ている。放送大学の特別講義で「司馬遷・旅と『史記』」という講義を聴講し、司馬遷という人物に興味を抱いた。
何といっても彼は宦官であるということ。宦官になったいきさつが、戦で負けた将軍を弁護したため帝の逆鱗に触れ、死刑になるところを自ら願い出て宮刑にしてもらったという。それで死刑は免れた。
この本は「ある死刑囚のあたえる手紙」という二章にわたる手紙の書き出しで始まっている。ある死刑囚とはもちろん司馬遷のことである。当時の制度では、銭を払って死刑を免れることもできたし、宮刑に変更してもらうことも可能だった。貧乏な司馬遷は金を工面できなかったので、やむを得ず宮刑で手を打った。その後の活躍を思うと、このとき死なないで本当に良かったとつくづく思う。
第一章の「ある死刑囚に与える手紙」の書き出しから全体を通して物語風で、歴史書というよりはやはり歴史物語なのだろうか。当時の人物が会話をしている場面が多く出てくるが、それが生き生きとそれぞれの場面を浮き上がらせる。
なにしろ「史記」本体は大変大きな資料なのだから、この新書サイズのようにコンパクトにまとめてもらえると、全体像を把握するのには良いのだろう。