山ちゃんの仕方がねえさ闘病記
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2003年08月07日(木) 初めての外出

昨夜は23時ごろ廊下で英語の会話が騒々しかった。例の米軍人のところに仲間が来ているらしい。昨日の日中も迷彩服の男女が数名見えていた。
今朝の7時ごろに部屋の前を通るともういない。既に退院したようだ。看護婦さんたちに
「もういなくなっちゃって寂しいね」
とからかうと、
「何言ってんの、通じなくて大変だったんだから。」
「でも昨日はお世話になりました。」

午前2時ごろには「胸焼け」と思われる症状で目が覚めた。胃の付近に強い圧迫感と痛みのような感触。30分ぐらいも苦しんだだろうか。ゲップをしたら少し楽になった。
これは食べ過ぎが原因である。体重が落ちてきたことを心配するあまり、昨日は家族にいろいろ食わせられた。昼前に娘がケーキを持ってきたのでホットコーヒーとフルーツタルト。昼食後、おやつに娘の買ってきたアボカド。面会の宮司さんたちと十六茶。夕方娘のおやつトッポと飲み物はティー・オレ。夕食後妻のカレーライスを3口ほど。健康なときでもこんなに食ったことはない。我が家の家族は単純である。そしてそれに同調する自分がいる。

胸焼けしている間はやはり眠れない。眠れないといろんなことを考えてしまう。
40年前、小学校2年のときのことだ。授業中に担任の先生が自習を命じた。そして私に教壇の前に来るよう命じ、一枚の原稿を差し出した。
「1回目は声を出さずに読みなさい。一通り読んだら、今度はそれを声に出して読みなさい。」
何のことかわからないが、言われるとおりに読み始めた。半分まで読んで不審に思った私は先生を振り返りたずねた。
「先生。Y君、死んだの?」
先生はそれには答えず、今度は声を出して読むよう指示した。
私は声に出して読み始めたが、やはり先ほどのところまでいくと声が震えて読めなくなってしまった。その原稿はY君への弔辞そのものだったのだ。それでも騒々しい教室内で誰かがその様子に気がつきからかいに来た。
「こいつ、泣いてら」
その輩には相手になる気にもならなかったが、先生に対して、Y君が死んだのかもう一度確かめる気にもなれなかった。
次の日も自習時間に呼ばれた。今度は教壇に座布団が一枚敷かれ、昨日の原稿は筆で書かれた巻物になっていた。前の日と同じところで声にならなくなった。葬式でも同じだった。

小学校へ上がる前に、幼稚園とか保育所などに通わなかった私には、新しい友だちはなかなかできなかったが、いろんなことを知っているY君が好きになった。そして私が今まで知らなかった新しいことを教えてくれるY君と遊ぶようになっていた。ところが突然Y君は学校へ来なくなった。

Y君が白血病という病気だったというのは後で知った。今ではいざ知らず、40年前、白血病は完璧に不治の病であった。


どうも起き掛けが腰の調子が良くない。ややもするとギックリ腰になりそうだ。リハビリのときでもベッドから起き上がるときにひねりそうだ。あまり怖がっていてもだめなのだが、油断して痛めてもいけない。

昼食後、初めての外出許可をいただき散髪に行ってきた。主治医の先生には「病院内にも床屋はありますよ」といわれたが、やはりかかりつけのところへ行きたいと話したら許可してくださった。予約の時間まで少々あったのでピア・ドゥへ電池や雑誌などを購入に立ち寄った。

数年前から市役所の近く、売市水門下にあるパーク理容室へ通っている。昨日あらかじめ電話をして午後2時に予約を入れておいた。ここ2〜3ヶ月来ないので、さては入院でもしたかと思っていたそうだ。察しがいい床屋だ。洗髪のときなどちょっとつらいので、さらっとやって欲しかったのだが、逆にいつもより丁寧にやってくれた。さすがに市民病院の床屋でカットしたときより格段の出来映えだ。

病院へ戻り、駐車場から車椅子を押して歩いていると、向こうから長靴姿の佐京利光さんが歩いてくる。
「何やってらっきゃ」
「車椅子を押してます。」
なんていう奇妙な会話を交わす。私の見舞いに来て下さったのだ。一緒に6階の病室へ来ていただき、しばらくお話をする。後から泉山覚さん、小川裕司さんが合流、デイルームで光星学院の試合を横目で見ながら会話が弾む。

ナースセンターの前を通ると看護婦さんが
「山村さん、3時ごろ面会の方々がどやどやとやってきましたけど、4時ごろまで外出してますと言ったら帰っちゃいましたよ。」
と声をかけられた。

本日おいでいただきました方々、留守にしており申し訳ありませんでした。


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