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2013年05月01日(水) ■ |
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フェイスブックで「等しい自分を伝えること」の難しさ |
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『ダメをみがく〜”女子”の呪いを解く方法』(紀伊國屋書店)より。
(深澤真紀さんと津村記久子さんとの対談集の一部です)
【深澤真紀:フェイスブックは非常によくできているけど、あれが大変なのは、実名なので、「濃淡があるいろんな人間関係の相手に、等しい自分を伝えなきゃいけない」ってこと。仕事の友だちも、幼稚園の友だちも、大学の友だちも、すべてに同じ情報や感情を伝えるのは無理じゃないですか。それぞれの共有しているものが違うから。 私もフェイスブックは使ってるけど、交流はグループごとですね。小・中学校のグループ、大学のサークルのグループ、仕事のグループ……って。そのグループの中なら、たとえば大学のサークルグループで、「村上春樹ってうちのサークルの先輩なんだね」って投げかけられる。それは仕事のグループとか小中学校のグループには関係ないですから。だから、フェイスブックがむずかしいのは、実名ですべての人間関係を均質化して、全員に同じ自分を等しく伝えなくちゃいけないということですね。誰もが「同じ私」を知ったら逃げ場がなくなると思うんです。人間関係って平等じゃないからね。大人になるって人間を上手に差別することだと思うんです。】
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「平等じゃない」とか「差別する」なんて言葉だけを採り上げてみると、なんだか感じ悪い話ではあるのですが、現実問題として、人と接する場合、相手によって「見せる面」を使いわけている人がほとんどなんですよね。 仕事仲間には「いまの仕事の顔」をみせるし、中学校の同級生とは「中学校時代の思い出」を語る。 家で野球中継をみながら、贔屓のチームの選手が三振したときに罵声を浴びせている姿を見せられても、「どうリアクションすればいいんだ」って話ですし。
「匿名での罵り合い」に疲れていたとき、「知りあいと、素の自分で接することができるフェイスブック」は、なんだかとても素晴らしいもののように見えました。 しかしながら、実際に使ってみると僕の場合は「素の自分」とは何か?という問題に、かえって直面してしまったのです。 「フェイスブックって、食事と旅行と子供の話題ばかり」と揶揄されることが少なくないのですが、ある程度の「友だち」がいると、「自分をアピールすること」よりも「自分を誤解されたり、嫌われたりするリスクを冒したくない」という気分になるのです。 「ここには、自分の『友だち』しかいない」と思えばなおさら。 フェイスブックを自分の「ショーケース」にできるような立場の人は、あえて、かなり思い切ったことを書くことにもメリットがあるのでしょうけど。
人というのは自分で思っている以上に自分の「背景」や「立場」で物事をみてしまいがちです。 いつも平日にしか休みがとれない人が平日に出かけていても「僕は働いているのに、羨ましい身分だなあ」なんて、つい考えてしまいますし、何気なくアップロードした子供の写真や豪華な食事の写真も「家族自慢」「贅沢自慢」に見られる可能性もあります。 「友だち全員に同じ内容を公開」していても、これまで、あるいは現在の関係や背景によって、受け止められ方は変わってしまう。 とはいえ、あまりにも個別に情報統制しようと思うと、何のためのフェイスブックなのか、ということになってしまう。 それなら、知らせたい相手に、直接メールしたほうが「安全」だろう、と。
フェイスブックというのは「実名だからこそ、相手が友だちだからこその難しさ」があるんですよね。 twitterであれば、面識のない面倒な相手は「ブロック」すればいいけれど、フェイスブックでは、実生活とリンクしているから、なかなかそういうわけにもいかない。
「実名には、実名の難しさがある」のは間違いありません。 実名=その人のホンネ、みたいに思われがちですしね。 本当は「ホンネ」だって、相手によって違うものなのに。
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