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2011年02月17日(木) ■ |
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「人間というものは本質的に理解できないものかもしれないという、畏れ」こそが映画である |
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『本に埋もれて暮らしたい〜桜庭一樹読書日記』(桜庭一樹著・東京創元社)より。
【さっきお風呂で読んでた沢木耕太郎が、『17歳のカルテ』の映画評で”犯罪事件の報道などで登場する、ある種の精神科医は、どんな人間のどんな行動も理論で説明できると思ってるよう”だけど、”人間というものは本質的に理解できないものかもしれないという、畏れ”こそが映画である、というようなことを言ってた。小説のほうを読み終わって、それを思い出して、いいこと言ってたー、と風呂まで沢木耕太郎を取りにいった。 わたしもよく、理屈っぽくいろいろ考えるけども、でも小説も理屈を書いたり読んだりするものじゃない。ある現象があって、それを理論にして、分析して、とずーっとやっていると、最後に「どうしても理論では太刀打ちできない、不思議でおそろしいもの」が、ちょっとだけ、残る。それが小説の核だ。だからその一粒をみつけて糧にするために、ずーっと、ずーっと、一人で考えてるのだ。理屈というのは、その一粒をみつけるため、現実をふるいにかける網でしかない、と思う。】
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最近、『逮捕されるまで』という、市橋達也容疑者が逃亡生活について自ら書いた本を読みました。 その本のなかで、市橋容疑者がテレビで自分の居場所を探す「超能力捜査」を観て、そのあまりの的外れっぷりにあきれる場面がありました。 そういう「怪しいもの」だけではなくて、「プロファイリング」などの科学的に確立された手法もあり、実際の捜査に行かされているのも事実なのですが、「テレビに出ている精神科医による分析」の信頼度は、現時点ではまだ、「超能力捜査寄り」だと考えるべきなのかもしれません。
精神科医の分析ですべてわかるようであれば、地道な捜査も取り調べも必要ないはずですし。
でも、そういう「理屈」の面を全く無視してしまっては、行き当たりばったりの思いつきにしかなりません。 桜庭さんは「理論では説明できないものを見つけだすためには、理論が不可欠なのだ」と仰っていて、これはたしかにその通りだなあ、と思います。 科学が無い世界では、「非科学的なもの」が存在しないのと同じですよね。
いやほんと、人間って、わからないものです。 僕は最近、自分で自分の「本心」みたいなものが、わからなくなることがあるのです。 ましてや、他人を完璧に「理解」することなんて、やっぱり不可能ですよね。 その一方で、データをどんどん増やしていけば、「100%的中する行動予測」みたいなことが可能になるのではないか、という気持も、まだ捨てきれないのですが。
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