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2009年09月08日(火)
しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。

『<狐>が選んだ入門書』(山村修著・ちくま新書)より。

【一個の作品として光る本を読むことの幸福。そのことを考えるとき、私がいつも思い出す一篇の詩があります。フランスの作家ヴァレリー・ラルボーの書いた『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)に引かれた「慰め」という散文詩です。作者はローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人、文法学者です。
 詩の主人公「私」はある日、打ちひしがれた気持ちで地下鉄に乗りこみました。かれがどうして打ちひしがれているのか、それは分かりません。かれは、私たち人間の生活にどんなよろこびがひそんでいるか、しきりに考えます。しかし、ほんのすこしでも関心を払うに価するよろこびが、生活のなかにあろうとは思えませんでした。酒もだめです。食べものもだめです。友情もだめです。愛もだめです。
 駅に到着しました。エレヴェーターで、地上にのぼっていかなくてはなりません。このエレヴェーターに乗って、ほんとうに地上の世界にもどる価値があるのだろうか。かれは自問します。つづく一節を、岩崎力訳から引いてみます。

<だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった>

 この一節は私の身にしみました。私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。
 しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いをすることができます。むずかしい局面に立たされたとき、なにもその局面に直接的に関係する本をさがして読むこともありません。なんでもいい、いま自分がいちばん読みたい本を読むのがいいのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もありきたりの勤め人生活をおくっていますので、この文章は、ひとりの「本好き」として、心に染みるものがありました。
 趣味が「読書」という人生は、ときどき、なんだかすごく哀しくなるのです。
 スポーツみたいに人前でカッコいいところを見せられるわけでもないし、音楽のように他人を魅了したり、絵画のように形になって残るものでもない。
 僕は「伝記」や「名言集」「歴史」を読むのが好きなのですが、正直、「いくら偉い人の素晴らしい言葉にたくさん触れても、僕の人生はそんなに豊かになってないよなあ……」なんてことを、よく考えていました。
 「読書」は、悩む「課題」を増やすだけで、人を幸せにしてくれないのではないか……

 そういえば、10代の頃は、「本を読む高齢者」に対して、「あんな年齢になって、いまさら本を読んで勉強したって、ムダなんじゃないの?」と思っていたっけ。

 でも、いまはなんとなく、「それでも、本があるからマシなのかな」と感じるようになりました。
 実際のところは、いくら本を読んでも、人生が目に見えて変化するということはないはずです。小説家や書評家のような職業の人は別として。
 しかしながら、「本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたる」生活者である僕にとっては、どんなにつらいときも、「家に帰ったら、あるいは、時間ができたら、あの本を読もう」と思うだけで、少なくとも、「それを読むまで生きておこうかな」という気分にはなれます。本が直接目の前にある問題を解決してくれなくても、時間が経てば、だいたいの問題はどうでもよくなってしまうものですし。

 そして、読書というのは、どこででも、短い時間でもできて、お金もそんなにかからない「趣味」なんですよね。この点で「読書」に対抗できるのは、「音楽鑑賞」くらいのものでしょう。
 だからこそ、この両者は、「没個性な趣味」として揶揄されがちなのですけど。

 しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。
 僕はけっこう、幸せ者なんじゃないかな、ちょっとだけ、そう思います。