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2009年06月21日(日)
ある無名のデザイナーと、彼が描いた「おっさん」の伝説

『任天堂 “驚き”を生む方程式』(井上理著・日本経済新聞出版社)より。

【プラモデルなど工作や玩具も好きだった宮本は、絵心と造形への興味を同時に満たすことができる工業デザインを学ぼうと、金沢市立美術工芸大学に入学する。
 音楽を覚えたのはこの頃だ。ギターを独学で学び、友人とバンドを組んだ。下手ながらも友人たちと音を合わせる喜びを知った経験は、素人でもコントローラーを振るだけでセッションできる音楽ゲーム《Wiiミュージック》に生かされている。
 奔放に育ち、あらゆる遊びを経験した宮本は卒業を控え、地元・京都の玩具メーカーが何やら楽しそうに思えて、就職の面接に出向いた。当時の任天堂は、脱・カードメーカー路線の最中。ビデオゲーム市場へと乗り込もうとしている時で、任天堂としても美術や工業デザインを学んだ人間と必要としていた。
 かくして、1977年、24歳の時、宮本は任天堂に入社する。デザイナーとしての入社は、宮本が初。といっても、最初はポスターやパッケージのデザインなど小さな仕事ばかり。だが、入社4年目に転機が訪れた。伝説の始まりだ。

 もともと宮本はビデオゲームを作りたくて任天堂に入ったわけではないし、岩田のようにプログラミングができるわけでもない。そんな宮本がビデオゲームのクリエイターとして頭角を現したのは、1981年に米国向けに輸出された業務用ゲーム機だった。
 当時は、タイトーが発売した《スペースインベーダー》を契機にゲームセンターブームが日本中を席巻していた頃。任天堂もブームに乗じようと、業務用ゲーム機の開発を本格化させていた。同時に、1980年に発売した携帯型ゲーム機ゲーム&ウオッチもヒットしつつあり、任天堂は経営資源を2つのゲーム機に集中投下していた。
 1980年には米国法人のNintendo of America Inc.(NOA)を設立し、海外展開も図る。ところが、米国に輸出した《レーダースコープ》という業務用ゲーム機で大量の在庫が生じてしまった。
「新しいゲーム機を載せた基盤だけを送ってくれないか」。そう、米国法人から依頼を受けた本社が考えたのは、ゲーム&ウオッチ向けに開発していたゲームを、業務用に転用することだった。
 国内ではゲーム&ウオッチのブームに火がつきつつあり、米国の在庫の尻ぬぐいに新規の開発チームをあてている余裕はない。救済のネタを探した結果、浮上したのが、ゲーム&ウオッチの新作として開発中だった《ポパイ》である。
 米国生まれのポパイならば知名度もある。米国でだぶついている在庫の基盤をポパイと入れ替えれば、いくらかはさばけるだろう。そんな軽い気持ちのプロジェクトに、宮本は、たまたま上司から誘われていた。
 だが、このプロジェクトは、版権の問題でポパイとその仲間のキャラクターが使用できなくなってしまい、頓挫する。ただし、ゲームの舞台やルールなど、骨格は流用できる。であれば、代わりとなるキャラクターを考えればいい。そんなお鉢が、絵心のある宮本に回ってきた。
 宮本は、ポパイの代わりに「マリオ」を、オリーブの代わりに「ピーチ姫」を、ブルートの代わりに「ドンキーコング」の絵を描き、「ドンキーコングが樽を投げる」「マリオがジャンプして避ける」という新たなアイデアも提案、それが採用された。宮本の記念すべきゲームクリエイターとしてのデビュー作である。
 ちなみに宮本は、もともと決まっていた工事現場という舞台設定から作業服のキャラクターを想起し、粗いドット絵でもわかりやすいという理由でヒゲをつけたキャラクターを描いて、単に「おっさん」と呼んでいた。米国法人の社員に見せたところ、マリオという同僚に似ていると話題になり、そう命名された経緯がある。
 この業務用ゲーム機、ドンキーコングは、米国法人の在庫分どころか、それを上回る注文が相次ぎ、最終的に6万台を超える大ヒットとなる。ゲームをデザインする楽しみを知ってしまった宮本。ここから破竹の勢いで人気ソフトを生み出し、「世界のミヤモト」への階段を駆け上がることになる。

(中略)

 岩田(聡・任天堂社長)は宮本の強さの秘訣を、「肩越しの視線」と表現する。
 ゲームを作り込んでいる最中の宮本は、しばしば、社内の総務関連の部署などからゲームをやらない人を連れてきて、コントローラーを握らせる。宮本はそのプレイの動きを何も言わず後ろから見つめ、「あそこが難しいなぁ」とか「あの仕掛けに気づいてもらえなかった。わかりやすく変える必要があるな」などと、改善点を次々と浮き彫りにするのだ。宮本は言う。
「いつも、これからゲームに引き込もう、という人を相手に作っているので、今、ゲームに熱中している人の意見は当てにならないところがあ」
「世界の宮本」は、任天堂がゲーム人口拡大戦略を始めるずっと前から、ゲームに関係のない人の声を拾っていた。どれだけ世界中で評価されようが、実績を作ろうが、決して独りよがりにはならず、「普通の人」がわからないのは自分が間違っているからだと、修正をしてきた。
 その武器が、「肩越しの視線」なのだ。
 生活の中に新しい遊びや楽しみを見出す、遊びへの探究心と鋭い嗅覚が、非凡なアイデアを生む。そして、見つけた遊びの種を、万人に理解してもらうために、愚直に遊びを磨き込む。
 その過程は、実に禁欲的なものである。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕が中学生の頃(25年前くらい)は、ファミコン全盛期でしたから、周りは「ゲームデザイナーになりたい!」という同級生がたくさんいたように記憶しています。いわゆる「インドア系」にとって、「ゲームクリエイター」は、憧れの職業だったんですよね。

 日本を、いや世界を代表するゲームクリエイター、宮本茂。
 僕はこの『任天堂 “驚き”を生む方程式』を読んで、「ゲームクリエイター・宮本茂ができるまで」の詳細を知ったのですが、宮本さんは、「ゲームを作るために任天堂に入った」わけではなく、文字通りの「(「ゲームデザイナー」じゃない)デザイナー」として入社されたんですね。
 考えてみれば、1952年生まれの宮本さんが学生生活を送り、就職した時代には、「ゲームデザイナー」なんて職業そのものがなかったんだよなあ。

 宮本さんがゲームをつくるようになったきっかけというのが、「アメリカで売れなかったゲーム機の在庫を捌くための穴埋め仕事」で、それも、当初予定していた『ポパイ』が、キャラクターの版権で使えなくなったから、というのは本当に不思議なめぐり合わせです。
 『ポパイ』がOKだったなら、「マリオ」はこの世に生まれていなかったのかもしれないのです。元は「おっさん」と呼ばれていたそうですから、周囲の期待も推して知るべし。
 ところが、この『ドンキーコング』の大ヒットで、「世界のミヤモト」への道が開かれました。任天堂に就職した頃の宮本さんは、自分が30年後にこんな「カリスマ」になっているなんて、想像もつかなかったのではないかなあ。

 しかし、これだけたくさんの「本職のゲームデザイナー」が生まれているにもかかわらず、そんなつもりで任天堂に入ったわけじゃない宮本さんが、まさに世界のトップランナーとして君臨しつづけているというのは、すごい話であるのと同時に、「みんなに楽しんでもらうためのゲームを作ることの難しさ」みたいなものを感じずにはいられません。
 岩田社長の「肩越しの視線」の話はとても印象的なのですが、考えてみると、こういう「普段ゲームをやらない人にやらせてみる」ということそのものは、多くのゲームクリエイターやメーカーもやってきているのではないかと思うのです。
 おそらく、彼らと宮本さんの最大の違いは、「彼らの意見を、いかに真摯に受け止めて、フィードバックしていくか」なのでしょうね。
 これだけ有名になり、世界的にも評価されていれば、「このゲームの面白さがわからないのは、プレイヤーにセンスがないからだ」「ゲーム好きならわかってくれる」という方向に流れていくのが、むしろ当たり前のような気がします。
 あるいは、「他人の意見に流されすぎて、軸がぶれてしまう」か。
 そうならないのは、宮本さんが「もともとは、テレビゲームを作ることが目的ではなかった人」だったから、なのかもしれませんね。