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2008年08月27日(水)
『ハゲワシと少女』と一人のカメラマン

『ジャーナリズム崩壊』(上杉隆著・幻冬舎新書)より。

【1993年、アフリカのスーダンを大飢饉が襲っていた。悲惨な現状を世界に伝えるため、多くのジャーナリストが現地入りを果たしていた。その中には、ニューヨーク・タイムズと契約したカメラマン、ケビン・カーター氏の姿もあった。

 カーター氏は、国連食糧配給センターのあったアヨド村を訪れて、栄養失調や伝染病で死んでいく子どもたちの姿をカメラにおさめていた。一羽のハゲワシが、飢えのために地面にうずくまっている少女を狙っているシーンに遭遇したのはその時である。
 同年3月26日、ニューヨーク・タイムズは一面トップにカーターのその写真「ハゲワシと少女」を掲載した。
 反響は絶大だった。この写真を機にスーダンへの支援を表明するボランティアが次々と現れた。また、タイムズには寄付が集まり、アフリカ飢餓救済運動の再興のきっかけともなった。だが、そうした声の中には、なぜ少女を助けなかったのかという批判も少なからず含まれていたのもまた確かだった。
 翌1994年、この写真がピュリッツァー賞を取ると、論争が再燃する。なぜ、その場で少女を助けなかったのかという問題提起は、最終的には「報道か、人命か」という大テーマに発展した。
 ピュリッツァー賞授賞式の1ヵ月後、カーターが自殺し、少なくともジャーナリズムの世界ではこの論争に終止符が打たれた。その結論は次のようなものであった。
 ――ひとりの少女の生命を救うことで、同じ境遇のさらに多くの子どもたちの生命が危険に晒される可能性がある。それを避けるためにも、ジャーナリストは対象(被写体)に触れるべきではない。
 ジャーナリズムはときに世界を動かす。カーターが写真を撮ったからこそ、アフリカへの感心が高まり、多くの子どもたちが救われたのだ。
 取材現場にいて、そうした自制心を常に働かせることは決して容易いことではない。だた、取材対象とのそうした距離感を保つことこそ、ジャーナリストに求められていることではないだろうか。】

参考リンク:ケビン・カーター(Wikipedia)

〜〜〜〜〜〜〜

この写真が「ハゲワシと少女」です。
おそらく、見たことがある方も多いのではないでしょうか。

 この文章を読みながら、僕はこんなことを考えずにはいられませんでした。
 「ケビン・カーターが、もし、ピュリッツァー賞受賞後に自殺をせず、有名ジャーナリストとして大威張りで世間を闊歩していたら、果たして、世界はこの写真、そして、ジャーナリズムの『善意』を信じていられるだろうか?」

 たしかに、「歴史的な事実」からすれば、このひとりの子どもの「犠牲」によって、その何千、何万倍もの子どもが救われたのだと思います。結果からみれば、ケビン・カーターの行為は「正しかった」し、彼の写真のおかげで助かった子どもたちも、それに同意するでしょう。

 しかしながら、この子ども、あるいはその親の立場からみると、ケビン・カーターがその場で「子どもを助けるより写真を撮ることを選んだ」のは、「非人間的な行為」ではありますよね。
 ただし、参考リンクのWikipediaの記述によると、この少女の近くには母親がおり、切実に『命の危険にさらされていた』わけではないようです。
 それでも僕としては、彼がシャッターを切るまでの時間に「もし目を突かれて失明することにでもなったら……」というような想像もしてしまうのです。
 ケビン・カーターがこの写真を撮ったのは、本当に「100%の良心」によるものだったのか?
 
 彼は、子どもたちが次々と死んでいく悲惨な現地の状況を伝えようと、この写真を撮り、発表したのですが、それが「世界を動かしたこと」と「彼自身も名誉と批判を受けたこと」が、彼の運命を変えてしまいました。
 おそらく、この写真を撮ったときのケビン・カーターは、目の前の場面のあまりのインパクトに、「シャッターチャンス!」だと感じたに違いありません。そして、この写真が自分を「成功」させてくれることを願った。
 もし、彼がカメラを持っていなかったら、ジャーナリストでなかったら、まず、ハゲワシを追い払っていたはずです。僕は、こういう場面で、写真を撮るより、ハゲワシを追い払う人間でありたい。
 しかしながら、もし彼がそうしていたら、多くの子どもたちが救われなかったかもしれません。
 
 この『ハゲワシと少女』と一人のカメラマンの話は、ケビン・カーターの自殺によって、「美化」されてしまっているように僕には感じられます。彼があの写真により成功し、人生を謳歌していたとしても、「ジャーナリストは世界のために目の前の人を見殺しにしてもしょうがない」「ジャーナリストは対象(被写体)に触れるべきではない」という彼らの「結論」に、頷くことができるでしょうか?

 たぶん、同じような場面で、「写真を撮る」ことよりも「対象を助ける」ことを優先し、ジャーナリストとして無名のまま終わってしまった人がたくさんいたのではないかな、と想像してしまうのです。
 僕は、そういう人たちのほうが「ひとりの人間としては偉大」なのではないかと考えずにはいられません。

 ケビン・カーターは、写真を撮る前に少女を助けるべきだったのか?

 「ジャーナリスト」もまた「ひとりの人間」である限り、この問いに対する正しい答えは無いのでしょう。

 戦場カメラマン、ロバート・キャパは、こんなことを言っています。
「悲しむ人の傍らにいて、その苦しみを記録することしかできないのは、時にはつらい」
 ケビン・カーターもまた、この「つらさ」をカメラと一緒に抱えていたのだと僕は思います。
 そして、「ジャーナリスト」を自称するのであれば、「取材対象とのそうした距離感を保つ」ことを正当化するだけではなくて、そうしなければいけない「つらさ」を感じる人間であってもらいたい、と考えずにはいられません。